「お待たせ」

そう言ってエントランスに現れた彼は、もう白衣を着ていなかった。
シャツにジャケットだけの姿は、病院で見る“医師”の顔とは違って見える。
ほんの少しラフなのに、背筋の伸びた立ち姿がやけに目を引いて。

――その瞬間、胸の奥が不思議とざわついた。
知らない一面を垣間見たようで、目を逸らせなくなる。

並んで歩きながら、思わず口にしていた。
「……いつも帰りこんな時間なんですか?」

時刻は21時を回っていた。

「いや、今日は早い方――かな」
先生は気だるげに笑う。
「いつもは23時とかになることが多い」

「……そんな遅いんですか? どうして」

「外来のあとにカンファレンスがあるし、救急が入ったらそのまま呼ばれる。
 あとは……自分がやらなくてもいい雑務を、何だかんだ断れなくてね」

「……大変なんですね」
口から出た言葉は、あまりに月並みで、自分でも気恥ずかしくなる。

先生は肩をすくめて、少し遠くを見ながら言った。
「まぁ、そういう仕事だから。慣れたけどな」

その視線が余りに寂しそうで。
思わず口に出していた。

「か、看護師さんとかがみんな言ってましたよ。御崎先生はすごく優秀なお医者さんだって。
 きっと、だから皆頼りたくなっちゃうんですね」

不意に足が止まる。横顔だけこちらに向けられて、低く息を吐く声が聞こえた。
「……優秀、ね」

冷ややかな響きに、一瞬言葉を飲み込む。

逸らされた彼の視線を追うと、
掲示板に貼られた一枚のポスターが目に入った。

「それはアカデミックハラスメントです! 相談室はこちら」

下には、よくある箇条書きの“典型例”。
•業績の不正利用、論文著者の不当な書き換え
•過度な雑務や労働の強要
•不利益な人事異動、僻地への不当な出向、およびそれを匂わせるような発言
•結婚や交際などプライベートに過度に干渉する発言
•指導と称した人格否定


(……?何でこんなのじっと見るんだろう……?)

先生は視線を外さないまま、低く呟いた。
「……優秀って、何なんだろうな」

胸の奥がざわついて、思わず「先生……?」と声をかけそうになったその瞬間。

日向さんは小さく首を振り、表情を整えてこちらを見た。
「……いや。なんでもない。ほら、早く帰ろう」

そう言って歩き出す背中は、やはり少し遠いままだった。