水瀬は缶コーヒーを一口飲み、わざと軽い調子で言った。
「そういえばさ、あんたの上司。向坂准教授。……もう再来年あたりには教授、ほぼ確定らしいわよ」
思わず視線を上げる。
水瀬はくすくすと嘲笑い、突き放すように続けた。
「残念ね。余計、首根っこ掴まれて逃げられなくなるじゃない」
胸の奥が重く沈む。その笑みが皮肉なのか同情なのか、判断がつかない。
さらに水瀬は、少し声を低くして言った。
「嫌いな上司に人生握られて……初動をミスったからこうなるのよ。……同情だけはしてあげるわ」
その一言が、苦い針のように突き刺さる。
反論したいのに、できない。
ただ目の前のコーヒーを睨みつけるしかなかった。
(……あの善人の皮被ったクソ上司がイカれたサイコパス野郎だって気づいたのは、もう2年前のことだ)
思えば研修医の頃から違和感はあった。
患者よりも論文、臨床よりも業績。
……何かがおかしいとは、ずっと心の隅で感じていた。
それでもようやく本質に気づいたその頃には、すでに目をつけられていて、嫌でも逆らえない立場になっていた。
次から次へと回されてくるのは、書きたくもないのに目立つテーマばかりの論文ネタ。
表向きは“チャンス”の皮をかぶった鎖だった。
逃げ道なんて、最初から用意されていなかった。
気づいた時にはもう、絡め取られていたんだ。


