「ーー本当に、こんなはずじゃ、なかった」
当直明けの休憩室。
あのサイコパス上司に対する一通りの愚痴という愚痴を同僚である水瀬に吐き出した後。
コーヒーの缶を開ける音が響き渡った。
「……日向、あんたさ。もうちょっと上手く立ち回りなよ。搾取されたくないんでしょ?」
水瀬の軽い口調に、俺は思わず眉をひそめた。
「……上手くって?」
彼女は肩をすくめ、悪びれもなく言葉を重ねた。
「論文もデータも、もう少し力抜けば良いのよ。新規性なんてゼロでいいし、なんなら日本語で出せば十分。
インパクトファクターなんてあるようでない雑誌に載せて数だけ稼いでれば、変に目をつけられないんだから」
俺は口をつぐむしかなかった。
彼女の言うことは、処世術としては正しいのかもしれない。
彼女は昔からそうだ。俺と違って器用で、決して不真面目ではないけれど、組織の中で自分の立ち位置を守りながらも、変に目立つことはしなかった。
だが、どうしても納得できない。
「学会だってそう。口頭発表なんてわざわざ狙うから目立つのよ。ポスターだけで出して、前でにこにこしてれば済む話」
耳に入るたび、胸の奥が冷たくなる。
そんな生き方ができれば、どれほど楽か。
けれど――
「……それが出来ないから、俺はこんなに苦しんでるんだが」
低く漏らした言葉に、水瀬は小さく笑った。
「でしょうね。真面目すぎるのよ、昔から」
そこで一拍置き、わざとらしく肩をすくめる。
「――でもいいじゃない。他人の業績奪ってでも、助教って肩書きは手に入る。それはそれで、実情を知らない人から見れば羨望の対象なんだから」
喉の奥に、苦いだけのコーヒーの味が広がる。
彼女の言葉は正しい。外から見れば、俺は“成功した若手医師”にしか映らない。
けれど、その裏にどれだけの不正と理不尽が詰まっているか……誰も知ろうとしない。
返す言葉を探しても、ただ胸の奥で重苦しい沈黙が膨らんでいくばかりだった。
自分が欲しいものって、なりたいものって何だったけ。
そんな答えの出ない問いかけが、また頭をよぎった。
ふっと、何故か理緒達のことを思い出した。
無邪気にこんな自分に信頼を寄せてくるあの瞳。
(……こんな世界。高校生である彼女達には、全く知る由もないんだろうな)


