二学期の始まり。夏休みを終えた教室は、ざわざわとした活気に満ちていた。
 窓際の席を狙う男子、前の方で友達同士固まりたい女子。担任が投げやりに「勝手に席替えしろ」と言った途端、みんなが一斉に動き出した。席をめぐってじゃんけんをしているやつまでいる。
 僕はといえば、机に腕を置いて突っ伏したまま、その喧騒をぼんやり眺めていた。
 ――正直、どこでも同じだ。
 授業中に寝るわけじゃないけど、目立ちたいとも思わないし、窓の外を眺めていたいわけでもない。後ろの席だろうと、前の席だろうと、大して変わらない。
 ただ、ひとつ。
 陽奈ちゃんの隣でなくなるのは、惜しい。
 そう考えた瞬間、心の奥が小さく疼いた。
 別に僕と陽奈ちゃんは「仲がいい」なんて周囲から思われてはいないだろう。けれど、隣の席で過ごした数か月は、僕にとってはあまりにも大きかった。
 教科書を忘れたとき、さりげなく見せてくれる笑顔。小さく笑うとき、耳の横で結んだツインテールが揺れるのを、僕はいつも横目で見てしまう。
 そんな日常が、席替えひとつで壊れてしまう。
 席が離れるという、物理的な距離とはまた別に生まれてしまう、“環境の距離”――それがどうしようもなく嫌だった。
 陽奈ちゃんはどの席に行くつもりなんだろう。ため息をついて、そろそろ立ち上がろうとした、そのとき。
「ねえ」
 隣から声がした。
 顔を上げると、陽奈ちゃんが小首をかしげて僕を見ている。ツインテールの毛先が肩に触れて揺れ、夏の名残を帯びた陽光が彼女の頬を照らしていた。
「あのさ、二学期もこのままの席でいいよね?」
 あまりにも自然に言うから、心臓が跳ねた。
 当たり前のように笑う表情に、思わず見とれてしまう。
「う、うん。もちろん」
 ようやく口から出た言葉は、情けないほど素直だった。
 陽奈ちゃんがふっと微笑む。その笑みを見ただけで、胸の中に溜まっていた重さがどこかに消えていった。
 ――ああ、守られた。
 そんな気持ちがした。
 クラスのあちこちではまだじゃんけんの勝敗が決まらず、笑い声が飛び交っている。だけど、僕の周りだけは不思議なくらい静かだった。
 隣にいるのは、変わらず陽奈ちゃん。
 その事実だけで、二学期の始まりが特別なものに思えた。

 頃合いを見て、担任が「席替え終了なー」とだるそうに告げる。
 僕と陽奈ちゃんは動かず、ただそのまま席についていた。
「ね、やっぱりこの席、落ち着くよね」
 陽奈ちゃんがそう言って笑う。
 僕はただ「うん」と頷くしかなかった。言葉をもっと探せばいいのに、胸がいっぱいで、うまく出てこなかった。
 窓から吹き込む風に、カーテンが大きく揺れた。
 髪をかすかに揺らす風の匂いと一緒に、夏祭りの日のことを思い出す。
 河川敷で交わした、誰にも言えない小さな約束。あの日から、僕は今まで以上に陽奈ちゃんを意識するようになった。
 その気持ちを、隣にいる彼女に悟られないように必死に隠しているけれど。
 ――わからないままでいい。
 そう思う。彼女の笑顔が見られるなら、それで十分だ。
 二学期もまた、陽奈ちゃんの隣で。
 その幸運を噛みしめながら、僕は小さく息を吐いた。