理科室の机に並んだ、試験管やヨウ素液の入った小瓶。今日の授業は、唾液の消化機能を学ぶ実験だ。
 黒い実験台の向かい側には、陽奈ちゃんが座っている。
 ツインテールをきゅっと結び、神妙な顔つきで実験道具を見つめる彼女に、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。
「それじゃあ、みんな。自分の唾液を試験管に入れてみてください」
 先生の声が教室に響いた。
 唾液を、入れる? つまり、今から陽奈ちゃんが人前で……。
 彼女は実にあっけらかんと、でんぷんの入った試験管を手に取って口を少し開いた。
(……あんな陽奈ちゃん、初めて見るな)
 普段は笑うときも凛としていて品があるのに、唾を垂らそうとする彼女の口元はどこか無防備で、子供っぽさと大人っぽさが入り混じったような、見慣れない表情を浮かべている。
 ツインテールが肩で揺れて、光を受けて柔らかくきらめいて。その瞬間、きらきらした液体が、試験管の中にぽとりと落ちた。
 僕は垂らすはずの唾を飲み込んでしまっていた。
(……もし陽奈ちゃんとキスしたら。あの唾液も、僕の口に……)
 そんな妄想が、頭の中を勝手に駆け巡った。
 慌てて首を振る。いやいやいや、授業中になに考えてんだ僕は。
 頬が熱くなるのをごまかすように、僕は自分の試験管を大げさにいじりはじめる。
 それでも、陽奈ちゃんが試験管に口を近づけたときの顔が、頭から離れなかった。

 放課後。
 昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声がかかった。
「……あ、朋希くん。帰る?」
 振り向けば、少しはにかんだ笑顔の陽奈ちゃんがいた。授業中の理科室の光景がよみがえって、僕は一瞬言葉を詰まらせた。
「う、うん。一緒に行こうか」
 並んで歩き出すと、夕方の風が二人の間をすり抜けていく。さっきまでぎゅっと胸を締めつけていた緊張が、少しずつやわらいでいった。
 二人で下校するのにも少しは慣れてきたのだろうか。そんなことを考えているうちに、会話はいつしかさっきの実験の話題になっていた。
「……あんな顔、普段は見せないよね」
 陽奈ちゃんが苦笑いしながら言う。
「うん。でも、それがなんか……」
 だらしない顔、といえばそうなんだけど――うまい言葉が見つからず、僕は口ごもる。ただ、陽奈ちゃんのそれには、普段とは違う秘められた魅力を感じたのは確かだった。
「って、朋希くんも変な顔してたよ?」
「えっ? 僕!?」
「なんかね、ずっと固まってた。実験も手についてないみたいだったよ。どうしてだろうねー?」
 彼女はからかうように笑って、歩幅を合わせてくる。
 その明るさに救われるようで、でも心臓の鼓動はますます早くなっていた。

 やがて、会話が途切れた。
 何か話さなきゃと思った矢先、陽奈ちゃんが小さく息を吸い込んだ。
「ねえ……さっきの実験で思ったんだけど」
 振り向くと、彼女の頬は夕日に照らされて赤く染まっている。
「もし……もしキスしたら、唾液って混ざるのかな、って」
 時間が止まったようだった。
 まさか、彼女の口からそんな言葉が出るなんて。反射的に笑ってしまう。
「……実は僕も、同じこと考えてた」
 陽奈ちゃんの目がぱちりと見開かれ、そして照れたように揺れた。
 気づけば、彼女の顔がほんの少し近づいていて――僕も自然に歩幅をゆるめた。
 互いの吐息が混ざりそうな距離。風に揺れたツインテールが僕の肩にかすかに触れる。
 ――このまま顔を近づけたら。
 僕の唇と、陽奈ちゃんの唇が。
 ごくん、と喉が鳴った。
 彼女の瞳がゆっくりと閉じられる。
 あと少し。あとほんの少しで。
 ……と、そのとき。
 陽奈ちゃんがはっと目を開いた。
「……まあ、まだ先のことだよね!」
 くるりと前を向いて、歩き出してしまった。
 ツインテールが揺れて、夕日を反射して眩しく見える。
 その背中を見つめながら、胸がしゅんとしぼむのを感じた。あと一歩のところで届かなかった。
 でも同時に、さっきの言葉が耳に残る。
 ――まだ、先のこと。
 「まだ」というのは、「いつかは」ってことなのか。
 足取りは軽いのに、心臓はずっと熱く、熱く鳴り続けていた。
(いつか……本当に、陽奈ちゃんと)
 そんな淡い希望が、胸いっぱいに膨らんでいた。