夏の校庭は、まるで熱気そのものだった。砂ぼこりと汗の匂いが混じり合い、クラスごとに立てられた旗の下で生徒たちが声を張り上げている。
 今日は体育祭。普段は静かな教室の仲間たちも、この日ばかりは別人のように盛り上がっていた。
 僕は応援席の一番端、木陰に少しだけかかる場所に腰を下ろしていた。汗で貼りつく体操着を気にしながら、視線は自然とグラウンドの方へ吸い寄せられる。
 ――陽奈ちゃんが、そこにいるからだ。
 赤いハチマキをきゅっと締め、耳の横で結んだツインテールを風に揺らしながら、出番を待っている。クラスの誰よりも絵になる姿だった。
 眩しい。正直、それしか言葉が出てこない。
 誰から見ても可愛くて、しかも陸上部でスポーツ万能。そのうえ、佇まいにはどこか品がある。そんな陽奈ちゃんが、教室で僕の隣の席に座っていることがいまだに不思議なくらいだ。
 彼女は笑顔で手を振り返していた。けれど、その笑顔の先にあるのはクラス全員で、僕だけじゃない。分かってはいるけど、胸の奥が少しだけざわめいた。

 ピストルの音が鳴り、リレーが始まった。
 第一走者たちが砂を蹴り上げて飛び出す。けれど、僕らのクラスは出だしでつまずいた。他のクラスとの差はどんどん開いていく。
「やばいな……」
 周りの声に混じって、僕も思わず呟いた。心臓が変に早くなる。まだ陽奈ちゃんの番じゃないのに。
 いよいよ彼女がスタートラインに立つ。バトンを受け取る姿勢に入ると、顔つきが変わった。普段の快活さに加えて、真剣な強さが宿っている。その横顔に、一瞬息を呑んだ。
 そして、バトンを受け取った瞬間――。
 彼女は風になった。
 ツインテールが跳ねるたびに光を弾いて、前にいたはずの走者をあっという間に追い抜いていく。観客席が一気に沸き立つのが分かった。
「陽奈ちゃん、いけーっ!」
 気がつけば、声を張り上げていた。普段こんなに大きな声を出すことなんて滅多にないのに。
 彼女はもちろん振り返らない。でも、僕の声がほんの少しでも届いていたらいい。そう願いながら必死に応援した。
 最後の直線で二位まで浮上し、彼女はバトンをアンカーの慧に託した。
 彼は、陽奈ちゃんやチームメイト、そして僕たちの願いを乗せて最後の一周を駆ける。そして、ぎりぎりで先頭をかわしてゴールテープを切った瞬間、歓声が爆発した。
「勝ったー!」
 周りのクラスメイトたちが立ち上がって叫び、肩を組んで喜び合っている。その中心で、陽奈ちゃんと慧が笑顔でハイタッチを交わした。乾いた音がはっきりと響いて、僕の胸に落ちてきた。
 二人とも、本当にいい顔をしていた。勝利の瞬間を一緒に喜び合う、その姿は眩しかった。
 ――ああいうのって、いいな。
 思わず、そんなことを考えていた。
 慧は誰とでも気さくに話せる、クラスの人気者だ。僕とは正反対の存在だと思う。だからこそみんなに頼られ、あんなふうに自然に陽奈ちゃんと笑い合えるのだろう。
 僕はといえば、応援席の端っこで手を叩いているだけ。惨めとか悔しいとかいうよりも、ただ「遠いな」と感じた。
 同じクラスで、隣の席なのに。陽奈ちゃんは、僕とは違う世界の真ん中で輝いている。
「朋希ー! お前ももっと喜べよ!」
 クラスメイトに肩を叩かれて、慌てて笑顔を作る。確かに、僕もクラスの一員だ。勝利を喜ばない理由なんてない。
 でも――目はどうしても彼女を追ってしまう。
 胴上げされそうになって「ちょっとやめてよー!」と笑いながら逃げ回る陽奈ちゃん。汗に濡れた頬がきらきら光って、ツインテールがはしゃぐみたいに揺れていた。
 その姿を見ているだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
 ――陽奈ちゃんって、本当にすごい。
 ただそれだけなのに、どうしてこんなに切ないんだろう。
 歓声に包まれる校庭の真ん中で、彼女は誰よりも輝いていた。僕はその眩しさを遠くから見上げながら、拍手を続けるしかなかった。
 その手のひらの熱は、太陽のせいなのか、それとも胸の奥の熱のせいなのか、自分でもよく分からなかった。