今年もプールの授業が始まった。
 六月の空は高く、雲はゆっくりと流れていく。プールサイドに並ばされた僕らは、コンクリートに裸足を乗せて、じりじりと焼けるような熱を感じていた。
 そのとき、視線の先に――陽奈ちゃんが現れた。
 肩までのツインテールを揺らしながら、更衣室から出てくる。スクール水着の紺色が白い肌を際立たせて、思わず息を呑んだ。ただ立っているだけで、どうしてあんなに絵になるんだろう。
 プールサイドに陽奈ちゃんが並ぶと、男子たちの空気が変わる。さっきまで騒がしかったのに、一瞬だけ静まり返り、そしてざわめきが広がった。僕もその一人に過ぎない。何も言えず、ただ心臓がうるさくて、直視できない。

 授業は一通り、決められたメニューをこなした。クロールや平泳ぎで何往復か。僕は泳ぎが得意じゃないから、ついていくだけで精一杯だ。
 けれど、泳ぎ終わってプールサイドに上がるたび、ちらりと視界に陽奈ちゃんが映ってしまう。水滴を払う仕草、ツインテールの毛先から滴るしずく。それだけで目が離せない。
 自由時間の笛が鳴ったのは、そのあとだった。みんなが一斉にばしゃばしゃと飛び込み、思い思いに泳ぎ出す。僕は壁際で息を整えながら、ふと反対側を見た。
 ――陽奈ちゃんの隣に、(けい)がいた。
 プールサイドで並んで座り、笑いながら何かを話している。距離は遠く、声は聞こえない。でも仲が良さそうな様子は伝わってきた。
 本宮(もとみや)慧。
 同じクラスで、サッカー部のエース。背が高くて、顔立ちも整っている。授業中も堂々としていて、休み時間には周りに人が集まる。女子からの人気は言うまでもない。男子の僕から見ても「絵に描いたような人気者」だった。
 なのに、不思議と嫌味がない。
 ムードメーカーで、人を馬鹿にしたりはしないから、誰も反感を持たない。むしろ「仕方ないな」と思わせるような空気がある。だから、陽奈ちゃんが隣に座って笑っていても――「やっぱり釣り合うのはああいう二人なんだろうな」と思ってしまった。
 本来なら、僕と陽奈ちゃんの距離は、このくらいが普通なのかもしれない。
 たまたま席が隣なのがきっかけで、名前で呼んだり手紙を交わしたりできたけれど。それがなかったら、僕はきっとこんな風に遠くからただ眺めているだけだっただろう。そんなことを考えると、胸の奥が少し苦しくなる。
 でもそのとき――視線が合った。
 水面のきらめき越しに、陽奈ちゃんがこちらを見ていた。少し驚いていたようだけど、次の瞬間、ほんのりはにかんで笑う。
 息が詰まった。
 心臓が跳ねて、思わず目を逸らしそうになる。けれど、逸らせなかった。
 ――やっぱり、可愛い。
 頭の中に、ただその言葉だけが繰り返されていた。

 授業が終わり、更衣室に戻ると、湿気と塩素の匂いが一気に押し寄せてきた。狭い部屋の中は、汗と水気でむんむんしている。床に水滴が散らばり、誰かの濡れたタオルがベンチに投げ出されている。
「なあ、今日の高瀬、やっぱ目立ってたよな」
 誰かが陽奈ちゃんの話題を切り出すと、あっという間に更衣室の空気がそれ一色になる。
「でも胸はそんなにって感じ?」
「バカ、あれがいいんだよ。すらっとしてて」
「わかる! 足めっちゃきれいだった」
 ……やっぱり、みんなも見てるんだな。
 そのとき、不意に矛先が僕に向いた。
「なあ朋希、お前一番見てただろ!」
 「え、いや、そ、そんなこと……」と慌てて否定するけれど、顔が熱くなる。すぐに「図星かよ!」と笑いが広がり、逃げ場がない。
 それでも、確かに目が合ったあの一瞬。笑ってくれたのは、勘違いなんかじゃない。そのことを思い出すたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 水面の向こうにいた陽奈ちゃん。彼女との距離を、僕は痛いほど感じた。
 けれど同時に、その距離を越えてこちらに向けられた笑顔を、忘れることはできなかった。