国語の授業。
 先生の声は耳に入っているようで、ほとんど通り過ぎていくばかりだった。
 「陽奈ちゃん」と呼ぶことになったあの日から、彼女のことがますます気になる。
 名前で呼んでとお願いされるくらいならば、少なくとも嫌われてはいないはず。だったらもっと話しかけたい、仲良くなりたい。
 だけど休み時間になれば、人気の彼女はすぐに友達に囲まれてしまい、もはや僕が入り込む隙は無かった。せっかく隣にいるのに実にもったいない。
 ――隣? そうか、その手があったか。

 今日もツインテール。
 耳の横で結ばれているから、頬や首すじのラインがすっきり見えて、ほんのり甘い匂いまで感じそうになる。
 これ以上高い位置ならアニメキャラみたいに誇張されていただろうし、低すぎたらただのおさげに見える。
 絶妙な高さ。そう思った。
 さらに肩にかかるくらいの髪の長さ。
 ぎりぎりのところで軽快に揺れて、彼女の快活な雰囲気をそのまま象徴しているみたいだった。
 ――なんでこんなところまで気になってしまうんだろう。
 そして、右目のそば。鼻筋の横にある小さなほくろ。これも、理由はうまく言えないけど、絶妙な位置。
 整った顔立ちの中でそこだけが強いアクセントになっていて、まだ幼さの残る表情に、妙に大人びた魅力を添えている。
(……もし勇気を出せたら、「そのほくろ、大人っぽいね」って伝えてみたい)
 そう考えかけて、あわてて打ち消す。
 もし彼女にとってコンプレックスだったら? わざわざ話題にしたら嫌な思いをさせてしまうかもしれない。そうじゃなくても、なんだか気障ったらしい。
 だったら、髪型を褒めよう。このツインテールなら、きっと笑って受け止めてくれる。ありきたりかもしれないけど、間違いではないはず。
 そう決めて、ノートの端に文字を書きつける。心臓がやたらとうるさく、手が震えた。
 迷った末に、びりっと紙を破り取り、机の上をそっと滑らせた。

 彼女が小さく紙を開いた瞬間、時間が止まったみたいだった。
 そして、頬が赤く染まるのを見て、胸の奥が熱く弾けた。
 返事なんて来ないかもしれないと思ったのに、彼女の手はすぐにシャーペンを走らせている。
 返ってきた小さな紙を開くと、そこには短い言葉。
 ――“ありがと。”
 たったこれだけ。けれどノートに大事に挟んだ瞬間、文字の余白にまで温度が宿るように思えた。
(……やばい。嬉しい)
 その後の授業は、正直なにも頭に入らなかった。

 放課後。
 昇降口で靴を履き替えていると、彼女が目の前にいた。目が合い、慌てて逸らされる。
(……声、かけたい)
 でも、なんて言えばいい?
 からからに乾いた喉から、かすれるように言葉が出た。
「……いっしょに帰る?」
 一瞬の沈黙。だが彼女の答えはすぐに返ってきた。
「うん」
 それだけで胸がふっと軽くなり、足が少し宙に浮いたように感じられた。

 並んで歩く帰り道。
 何を話せばいいかわからず、沈黙が続く。けれど、不思議とその沈黙が心地よかった。
 信号待ちで二人並んで立ち止まると、夕方の風に揺れるツインテールが視界の端で踊る。さっき紙に書いた言葉を、思い出さずにはいられなかった。
 青に変わった信号。
 彼女と並んで歩き出す足音が、確かに自分のものと重なっていた。
 ――少し、仲良くなれたかな。