僕とあの子のツインテール

 陽奈のお腹がゆっくりと膨らみ始めて、もう数か月が経つ。
 春の風がカーテンをふわりと揺らし、柔らかな光の中で、僕らは肩を並べて腰を下ろしていた。
 今日の検診で、赤ちゃんの性別が分かった。
 女の子だと知った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。まだ顔も見ていないのに、確かにそこに存在している命が、急に近づいてきた気がした。
「ねえ、名前どうする? もう決めてもいいよね?」
 リビングのテーブルに雑誌やメモ帳を広げて、陽奈は声を弾ませる。
 膝の上で雑誌をぱらぱらめくりながら、「最近人気の名前ランキング」とか「響きがかわいい名前特集」とか、付箋の貼られたページを次々に見せてくる。
「ほら、美羽とか、結衣とか、花音とか。響きが柔らかくて、可愛らしいなと思って」
「うん、いいと思うよ」
「それから、さくらとか……あかりとか! ひらがなもいいと思うの。覚えてもらいやすいし、なんだか優しい子になりそう」
 彼女はもともと明るい性格だから、こうして「今風の名前」を口にするときの表情も、どこか楽しげで未来を見つめているようだ。
 僕は頷きながら、言葉を探していた。心の奥でずっと温めてきた名前を、どう伝えるか。
「陽奈ちゃん」
「ん?」
「実は、女の子だったらずっと付けたいって思ってた名前があるんだ」
 ペンを持つ手を止めて、彼女が顔を上げる。期待に満ちた瞳に射抜かれて、胸が一瞬だけ強張った。
「……陽子(ようこ)、ってどうかな」
 少しの沈黙があった。
「陽子?」と彼女は小首をかしげる。
「うーん、ちょっと古めかしい響きかなあ。最近は“子”が付く名前もめっきり減ってるみたいだよ? 私たちの頃は、けっこういたけど」
 否定ではない。でも、あまり乗り気でもなさそうな口調。僕は思わず笑ってしまった。予想はしていた。
 それでも、この名前に込めた思いをどうしても伝えたかった。
「中学の頃さ、陽奈ちゃんはいつもクラスの中心にいたよね。僕はあんまり目立たなかったけど、陽奈ちゃんがいるだけで、教室が明るくなった。本当に、太陽みたいに明るくてさ」
 陽奈の頬が、わずかに赤くなる。
「太陽って、大げさだなあ」
「みんな元気だったよ。朝のホームルームも、放課後のグラウンドも。僕にとっては、陽奈ちゃんの笑顔が眩しくて……だから、娘にもそんな名前をつけたいんだ。陽奈ちゃんみたいに、周りを明るくしてくれる太陽のような子になってほしくて」
 言いながら、少し照れくさくなって視線を逸らした。けれど、彼女は黙ったまま、僕を見つめている。
「……朋希くんって、普段はおとなしくてちょっと頼りないのに、こういう大事なときはいつもビシッと決めてくるよね」
「そうかな」
「そうだよ。中学のときもそうだったじゃん。ほら、文化祭の演劇。急に代役をやることになったのに、本番の演技……すごくかっこよかった」
 懐かしい記憶がよみがえる。
「私の服装とか髪型とか、いつもちゃんと褒めてくれたし。それに……告白のときもそうだったよね」
「……あれは」
「ねえ、覚えてる?」
「忘れるわけないよ」
 照れ隠しに笑うと、彼女も頬を染めながら微笑んだ。
「……でも、そんなところが好きなんだよね。まいったなあ」
 彼女はため息をつきながらも、目は優しく笑っていた。
「分かった。陽子にしよう」
 その瞬間、胸がじんと熱くなった。
 心の奥に抱いてきた願いが、ようやく形になった気がして、言葉が出てこなかった。

 そして、季節は流れた。
 病院の白い廊下で、僕は何度も時計を見上げていた。
 分娩室の扉が開いて、医師の声が響いた瞬間、全身の力が抜ける。
「陽奈ちゃん、頑張ったね」
 ベッドに横たわる彼女の手を握る。汗に濡れた額、疲れ切った顔。それでも微笑んで、「ねえ、見て。私たちの子だよ」と呟いた。
 腕の中に抱かれた赤ん坊の顔を見て、言葉にならない思いがこみ上げる。小さな手、小さな爪。まだ頼りなくて、それでもしっかり生きている。
 この子が「陽子」と呼ばれる日々が、今から始まるのだ。
 窓の外では夏空が広がり、新しい命を祝福するように太陽が燦々と輝いていた。

 僕と陽奈の二人の物語(ツインテール)は、今日から三人になって新しい章を歩み出す。
 この小さな温もりを、これからも守っていこう――。
 僕は心に、強く、静かに誓った。