卒業式の朝、僕はいつもより早く目が覚めた。
 窓の外には、薄くにじむ春の光。三年間着続けた制服の袖に腕を通した瞬間、胸の奥で何かがそっと揺れた。
「今日で中学も終わりだね」
 母が味噌汁をよそいながら呟いた。
 その声色に、どこか寂しさが混じっているのを感じた。僕は「うん」と短く答えただけで、黙々と箸を進めた。
 家を出る前、鏡に映った自分の姿を見て「これでいいのか」と心の中で呟いた。
 卒業式というだけじゃない。今日、僕は陽奈ちゃんに――。

 体育館に入ると、すでに在校生や保護者が整然と座っていた。壇上には国旗と校旗。三年間で何度も目にしてきた光景のはずなのに、今日だけはまるで違う舞台のように見えた。
 入場の列に並びながら、陽奈ちゃんの横顔が目に入る。凛とした姿勢、上品にまとめられたツインテール。
 陽奈ちゃんはやっぱり、誰よりも輝いていた。そんな彼女が僕の隣で笑ってくれた一年間も、今日が最後になる。
 式は粛々と進む。卒業証書を受け取る同級生たちの背中を眺めているうちに、胸の奥が少しずつ熱くなっていった。名前を呼ばれて壇上に上がり、証書を受け取るとき、僕は妙に背筋が伸びていた。

 退場の拍手が鳴り響き、式が終わると教室は一気ににぎやかになった。
 黒板いっぱいに描かれた「卒業おめでとう」の文字。机を寄せ合って寄せ書きを書き合う女子たちの笑い声。男子たちは大声で写真を撮り合っている。
 そんな中、僕は友達と笑い合いながらも、心ここにあらずだった。
 陽奈ちゃんは、女子の輪の中で楽しそうにしている。仲の良さそうな子にからかわれ、頬を赤らめながら笑っていた。その笑顔を見るたびに、胸が締めつけられる。
 頃合いを見計らって、僕は目配せをした。
 陽奈ちゃんが少し驚いた顔をして、けれど小さく頷いてくれる。その瞬間、心臓が一段と早鐘を打った。

 校舎裏はひっそりとして、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。まだ冷たい風が、冬の名残を運んでくる。
「今日で最後だね」
 陽奈ちゃんが少し伏し目がちに言う。
「……うん。だから、ちゃんと伝えておきたいんだ」
 震える声で返すと、陽奈ちゃんは真剣な表情で僕を見つめてきた。
 僕は深呼吸して、胸に積もり続けた想いをすべて言葉に込めた。
「僕は……陽奈ちゃんが好きだ。ずっと、これからも一緒にいたい」
 緊張で手のひらが汗ばむ。けれど、声だけははっきり出した。僕のすべてをこの瞬間に賭けるつもりで。
 しかし、返ってきた言葉は、僕が想像していたものとは少し違っていた。
「あたしだってもちろん大好きだよ。たくさん思い出作れて、こんなにも輝いてる時間を過ごせて、本当に幸せだった。だけど……」
 陽奈ちゃんは、未来への不安を一つひとつ言葉にしていった。
 高校が別々になること。違う環境で長く過ごすうちに、せっかくの輝きが失われてしまうのが怖いこと。だからここで一区切りつけたい、と。
 僕はただ黙って聞くしかなかった。
 陽奈ちゃんの声は震えていなかった。むしろ覚悟がにじんでいた。
 本当は叫びたかった。「そんなことない! 絶対に気持ちは変わらない!」って。だけど、それは僕のエゴだ。
 ――あれはいつだったろう。教室内ですら感じたことのある、“環境の距離”。
 これから僕たちは、高校という違う世界に進む。
 いくら電話をしても、いくら会いに行っても、埋まらない距離が生まれるかもしれない。その現実を、陽奈ちゃんは誰よりも冷静に見つめていた。
 大人から見たら他愛もないことかもしれない。だけど僕たちはまだ中学生。この距離を埋めるにはあまりにも未熟なのだ。
 だから僕は、彼女の選んだ言葉を受け止めるしかなかった。
「わかった。……陽奈ちゃんの言うとおりだと思う」
 それだけ言うのがやっとだった。

 だけど陽奈ちゃんは最後に、小さな声で「でもね、わがまま言ってもいい?」と続けた。
「最後に――思い出が欲しいな」
 彼女はそう呟くと、ゆっくりと瞳を閉じた。
 それが何を意味するのかは僕にだってわかったけど、頭が真っ白になった。演劇の時にしたのはあくまで役の中のこと。本当の僕たちじゃない。
 僕は陽奈ちゃんの肩に手をかけ、そっと抱き寄せた。
 細い身体が少し震えているのを感じる。僕の心臓も爆発しそうなくらい速く打っていた。
 そして唇が触れ合った瞬間、世界が止まったように思えた。
 長くて、切なくて、それでいて胸の奥をじんわり照らすようなキス。校舎裏の冷たい風すら感じなくなるくらいに。
 だけど、現実は止まってはくれない。時間は進み続ける。僕たちは未来へ歩いていくしかないんだ。

 陽奈ちゃんはきっと、これからもクラスの真ん中で笑っているだろう。高校に行っても、大学に行っても。僕なんかよりずっとたくさんの人に囲まれて、いろんな経験をしていくんだろう。
 本当は、これからも彼女の笑顔を独り占めしたかった。だけど、そんなことはできない。陽奈ちゃんは、僕だけのものじゃないから。
 だから僕は覚悟する。たとえ彼女が、僕の知らない誰かと笑い合う日が来ても――それでも僕は、この初恋を抱えて生きていこう。

 帰宅してベッドに横たわると、天井を見上げながら陽奈ちゃんの言葉が何度もよみがえった。
 これでよかったのだろうか。強がって受け入れたけれど、胸の奥は空っぽになったみたいだった。
 それでも、僕は彼女の未来を信じたい。僕自身の未来も。
 大人になった僕たちが、もし再び同じ時間に立つ日が来るのなら――その時、僕はどんな顔で彼女を迎えて、どんな未来を描けるだろうか。
 陽奈ちゃんと結婚する未来。明るい彼女と内気な僕。赤ちゃんの名前で揉めているかもしれない。
 もしかしたら、違う誰かと恋をして、家庭を持っているのだろうか。いや、僕のことだから独身もあり得る。それでも――。
 あのキスのぬくもりだけは、これから先どんな未来が訪れようと、きっと消えない。僕の人生を形づくる大切な欠片として、ずっと残り続けるはずだ。