四月の新しい生活に慣れてきたとはいえ、僕はまだ、このクラスの中で居場所を探している最中だった。
 周りを見れば、もう笑い合っている輪がいくつも出来ていて、その中心にはたいてい、高瀬陽奈の姿がある。
 耳の横で結んだツインテールは、歩くたびに揺れて光を弾き、ただ机に座っているだけで教室が少し明るくなるような気さえした。誰に対しても気さくで、笑顔を見せるのを惜しまない。そんな彼女の周りに自然と人が集まっていくのは、当然のことだろう。
 名前の通り、太陽みたいな子だ。
 僕はといえば、隣の席でノートを開きながらも、ほんの少し横目でその横顔を追うばかりだった。
 ――僕も少し話しかけてみたい。
 そんな気持ちはずっとあったのに、どうしても言葉が口から出てこない。隣に座っているという事実だけで十分幸運なのだと、自分を言い聞かせていた。

 そんなある晩、思いがけずその瞬間は訪れた。
 夜の八時過ぎ、机に向かって宿題をしていると、受話器の音が家中に響いた。母が出て数言交わしたあと、「朋希(ともき)、あんたにだって」と僕を呼んだ。
 電話の相手はクラスの佐藤。――担任から順に回ってきた連絡網だった。用件をひととおり聞いて、電話を切る。
 まだ真新しい連絡網の表を見ると、自分の次は田中。だが何度かけても、呼び出し音ばかりで応答がない。こんな時はさらに次の家へ回す。表の下をたどると、そこには「高瀬陽奈」の名前があった。
 胸が大きく跳ねた。
 回さなければならないのだから、ためらう理由はないはずなのに、指先が震えて思うように番号を押せない。ようやく繋がった電話口から聞こえたのは、落ち着いた女性の声――お母さんだろう。
「もしもし、高瀬さんのお宅でしょうか。真鍋(まなべ)と申します。連絡網を回してまして……えっと、陽奈ちゃん、いますか」
 お母さん相手に「高瀬さんいますか」は少し変だなと考えた生真面目な僕は、あの子の名前を初めて口にした。本人の前でもないのに、顔が赤くなる。
「はいはい。ちょっと待ってね。陽奈ー! 電話!」
 受話器の向こうで声が響き、足音が近づく。待っている間も、あの子の名前が頭の中に反響し続けた。
 そして、軽い息遣いとともに聞こえた声。
「……はい、高瀬です」
 その一言だけで胸が詰まる。受話器越しなのに、彼女の声は驚くほど澄んで耳に届いた。
「あの、こんばんは、真鍋です」
 自分でもわかるくらいのぎこちない挨拶。教室でもほとんど言葉を交わしていないのに、いきなり二人きりで話すことになるとは。否が応でも胸が高鳴る。
「それで、連絡網なんだけどね、陽奈ちゃん――」
 あっ!
 やらかした……。「高瀬さん」と呼ぶつもりが、口をついて出たのは彼女の名前の方だった。
 沈黙が余計に気まずさを増幅させる。
 受話器の向こうで、小さく笑うような気配がした。だが彼女は何も突っ込まず、「ああ、連絡網ね」と軽やかに応じてくれた。
 そのまま早口で用件を伝え、僕は逃げるように「じゃあ」と言って切った。

 布団に潜り込んでも、鼓動は収まらなかった。
 「陽奈ちゃん」――。
 緊張で声が震えていなかったか、妙に馴れ馴れしく響いていなかったか。考えるほどに顔が熱くなって、枕に押し付けても眠気は訪れなかった。
 耳に残った彼女の声が、不思議と何度も繰り返し蘇る。それから僕の「陽奈ちゃん」という言葉に続いた、あの小さな笑みの気配。
 もしかして、嫌な思いはしていなかったのかもしれない。そう思うと胸の奥にかすかな温かさが広がった。

 翌朝。教室に入ると、彼女はいつものように明るい笑顔を浮かべて友達と話していた。
 肩にかかるツインテールが揺れるたびに光を受けて、机に腰かける姿まで絵になる。やはり彼女は特別だ、と改めて思う。
 隣の席に座り、勇気を出して声をかけようとした。
「……高瀬さ――」
 言いかけた瞬間、こちらを向いた彼女が唇に笑みを浮かべた。
「ねえ、昨日みたいに呼んでよ」
 からかうような声音に、一瞬で胸が跳ね上がる。
「い、いや、その……」としどろもどろになる僕に、彼女は少し身を寄せ、ツインテールを揺らしながら覗き込んできた。頬が近くて、思わず息を詰める。
「いいでしょ?」
 柔らかく微笑みながら迫られると、逃げ場などなかった。顔が熱くなるのを感じつつ、震える声で答える。
「……ひ、陽奈ちゃん」
 彼女は満足そうに頷き、さらに追い打ちをかけるように微笑んだ。
「そうそう。じゃあ、ずっとそう呼んでね。――朋希くん」
 僕の名を、彼女が初めて呼んだ。耳に届いたその響きに、胸の奥が熱く満たされていく。
 すると、僕らのやり取りに気づいた周りが「隣同士で名前呼びかよ!」「新婚さんみたい!」などと茶化してくる。慌てて否定しようとする僕よりも先に、彼女がケラケラと笑った。
「なにそれ、みんなひやかしすぎ!」
 明るく受け流すその姿に、余計に頬が熱くなる。
 ――陽奈ちゃん。
 恥ずかしいのは間違いないけれど、これからも彼女のことをそう呼べることに、僕は妙な誇らしさを感じているのだった。