朝、教室に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず立ち止まった。――誰だろう、と思った。
 陽奈ちゃんが、ツインテールをしていなかったのだ。
 いつも耳の横で結ばれている髪が、今日は肩までまっすぐに下ろされ、その右頬のあたりでだけ、細めの三つ編みが小さく揺れていた。
 クラスの男子たちがざわめいた。「雰囲気違うな」「大人っぽい」なんて声が聞こえてくる。僕も同じことを思った。もともと華やかな子だけど、今日の陽奈ちゃんは少し落ち着いた印象で、思わず見とれてしまう。
 女子たちにも囲まれて、「陽奈、どしたの!?」「いや~、ヘアゴムなくしちゃってさ」「でもその髪型も可愛い!」なんて盛り上がっている。
「お、なんか懐かしいな」
 そんな中、慧が声を上げた。
「えっ?」
「昔、そんな感じの髪してただろ。中一の頃だっけ」
「あ……言われてみればそうかも」
 慧と陽奈ちゃんが自然にやりとりしているのを聞きながら、胸の奥がざわついた。懐かしい? 昔の髪型? 僕には記憶がないはずなのに、どういうわけか見覚えがあるような気がした。
 ツインテールじゃなく、頬に沿う三つ編み。陽射しに揺れる髪の先。
 頭の奥で、薄れていた景色が少しずつ色を取り戻していく感覚がした。

 ……そうだ。小学生のときだ。
 ちょうど今くらいの季節、秋の終わり。僕は美化委員会に入っていて、その日はみんなで校庭の掃除をしていた。
 熊手で落ち葉をかき集めようとしたけれど、不器用な僕はなかなか上手くいかず、ほとんど袋を埋められなかった。周りの子が次々と袋を運んでいく中、焦るばかりで全然役に立てなかった。
 そのときだった。
 落ち葉でいっぱいになった袋を抱えて、向こうから元気よく駆けてくる女の子がいた。
 小麦色に日焼けした肌に、太陽みたいに眩しい笑顔。肩までの髪の陰で、頬の横の小さな三つ編みが風に揺れていた。
 その子は僕が空っぽの袋を持って立ち尽くしているのを見ると、迷いなく落ち葉を半分くらい分けてくれた。
「先生が焼き芋を作ってくれるんだって! ほら、これで一緒に出しに行こ!」
 クラスも違い、名前すら知らないその子に話しかけられて、戸惑っているうちに――彼女はもう駆け出していた。
 お礼も言えないまま、その背中を僕はただ呆然と見送った。
 その後のことはあまり覚えていない。当時は男友達と遊んでばかりだったし、その子のことを意識するなんてこともなかった。
 だけど、笑顔と三つ編みだけはずっと印象に残っていた。
 
 ――まさか。
 胸の鼓動が速くなる。あの記憶の中の子と、今の陽奈ちゃんの姿が重なっていく。
 僕は思わず声を漏らしていた。
「……なんか、僕も見覚えがある気がする」
 陽奈ちゃんが目を丸くする。
「えっ!? ほんとに?」
「確か、小学生のときの美化委員会で……みんなで落ち葉を集めて、先生が焼き芋を作ってくれた日。今の陽奈ちゃんと同じ髪型で、すごく元気で……優しい子がいたんだ」
 言いながら、自分でも鳥肌が立った。
 あのときの子が、陽奈ちゃんだったなんて。
「……あたしも思い出した。あの頃から一緒だったんだね!」
 陽奈ちゃんが目を輝かせて笑った。頬の三つ編みがふわりと揺れて、心臓を掴まれたようにどきりとする。
 運命――そんな言葉が頭をよぎった。
 お互いに気づいていなかったけれど、偶然同じ委員会で出会っていて。
 あのときの元気いっぱいの陽奈ちゃんが、中学生になって女子らしく気品を備えた今の彼女と、一本の線で繋がる。
 ずっと忘れていたはずの記憶が、鮮やかによみがえった。
「なんか、不思議だね。髪型ひとつでこんなこと思い出すなんて」
 陽奈ちゃんが言った。
 僕は頷くしかなかった。
「……でも、思い出せてよかった。あのまま忘れていたら、きっともったいなかったから」
 陽奈ちゃんは小さく笑った。その笑みを見て、胸の奥が温かく満たされていく。
 偶然じゃなくて必然だったね――なんて、恥ずかしくて口にはできなかったけれど、大げさではなく僕はそう実感していた。

 放課後、校門を出るとき、陽奈ちゃんが不意に立ち止まった。
 秋の風に髪を揺らしながら、まっすぐにこちらを見る。
「……ねえ、朋希くん」
「ん?」
「明日からはまたツインテールに戻すけど――今日のことは、覚えててほしいな」
 いたずらっぽく片目を閉じてみせたその仕草に、心臓が大きく跳ねた。
 もちろん忘れるわけがない。
 この日のこと、この髪型のこと、そしてあの頃から続いていた記憶のこと。
 すべてが、大切な宝物みたいに胸の中に刻み込まれる、そんな一日だった。