中間テストが近づいてきたある日の放課後。
陽奈ちゃんと慧と僕の三人は、図書室の隅の席に集まって教科書を広げていた。窓際の光が傾きはじめていて、蛍光灯の白い光が次第に目にしみてくる。
「うーん……もうこんな時間か」
時計を見て呟いた僕に、陽奈ちゃんが顔を上げる。
「ねえ、放課後だけじゃ時間足りなくない? 試験範囲、まだぜんぜん終わってないし」
「だな。俺もこのペースだとちょっとやばい」
そんなやり取りを見て、僕は少し考えてから口を開いた。
「だったら……今度の休日、うちで勉強会でもしない? 午前から集まれば進むと思うし」
言うや否や、陽奈ちゃんがぱっと笑顔を見せる。
「いいね! 賛成!」
あまりにも即答だったから、心臓が跳ね上がった。
けれど慧は、ほんのわずか間を置いてから肩をすくめる。
「……悪い、俺はいいや。予定あるから」
その言い方がどこか含みをもたせていて、僕は何も返せなかった。
帰り道、慧は信号待ちで不意に振り返り、僕だけに見える角度で親指を立ててきた。にやりと笑って。
あれはたぶん……「お前、頑張れよ」って意味だったんだろう。いちいち格好つけるのが、実に慧らしい。
そして迎えた当日。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、僕は緊張で喉がからからになった。ドアを開けると、そこに立っていた陽奈ちゃんは――いつもの部活帰りの姿とはまるで違っていた。
白いブラウスに、深い紺のスカート。細めのリボンで結ばれたツインテールが、ふわっと風に揺れる。
思わず言葉が出なかった僕に、陽奈ちゃんが「おはよ」と微笑む。
「あ……その、今日……すごく可愛いね」
やっとの思いで口から出た言葉に、彼女は慌てて顔を赤くして「ふ、普通だし!」と返してきた。
その照れた仕草がまた、息を呑むほど可憐だった。
僕の部屋に入ると、陽奈ちゃんは興味津々といった様子で見渡した。
机の上のノート、本棚、そして――フォトフレーム。
夏祭りの夜に撮った、ツインテールを揺らす彼女の写真だ。見られると思うと照れくさかったけれど、結局そのままにしておいたんだった。
でも、それをちらりと見た陽奈ちゃんの口元が緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。やっぱり、片づけないで正解だった。
勉強会は、思った以上に順調だった。
苦手な数学を教えるとき、僕はできるだけわかりやすく説明しようと必死になった。ノートに図を描きながら「ここがこうだから」と説明していると、陽奈ちゃんが真剣に頷いてくれる。その横顔が眩しくて、説明の途中で声が少し震えた。
慧みたいに運動神経がいいわけじゃないし、背も低い。男らしさなんて、きっとまだ足りていない。
だけど、勉強くらいは役に立てる。ただそれだけでも、自分の居場所があるような気がした。
事件は、不意に起きた。
「ちょっとトイレ借りてもいい?」
そう言って立ち上がった陽奈ちゃんが、すぐにふらついた。
「わっ……!」
足が痺れていたらしい。倒れそうになった彼女を咄嗟に抱き止め――そのまま、勢いでベッドに倒れ込んでしまった。
僕の身体が、陽奈ちゃんの上に覆いかぶさる。
至近距離にある大きな瞳が、すぐに閉じられた。
「……陽奈ちゃん」
気づけば、名前を呼んでいた。
左腕で背中を抱き寄せ、右手は……衝動に負けて胸元へ。ブラウスの上から、ささやかな膨らみを軽くなぞった瞬間、陽奈ちゃんの吐息が耳にかかる。拒まれるどころか、甘く震える声が漏れて。
理性が焼き切れそうだった。陽奈ちゃんのとろけるような表情がすべてを語っている。きっと僕の意志ひとつで、キスだって、その先だって受け入れてくれそうなことを。
でも――だめだ。こんなことで。こんなハプニングで。
必死に頭を振り、僕は身体を起こした。
「ご、ごめん……!」
謝る声は、情けないほど裏返っていた。顔も真っ赤だったと思う。
陽奈ちゃんは何も言わず、少し微笑んだように見えた。彼女の瞳は穏やかで、それがかえって胸の奥を締めつけた。
その後の時間は、ただ気まずさだけが流れていった。教科書を開いても文字が目に入らない。彼女も同じだったと思う。
結局、予定より早く切り上げることになり、僕は「送っていくよ」と言った。
夕暮れの道。並んで歩きながら、沈黙が続く。
やがて陽奈ちゃんが、ぽつりと言った。
「さっき……ありがとね」
その言葉に、胸が締めつけられる。僕は「ごめん」としか返せなかった。
短い沈黙ののち、陽奈ちゃんが照れ隠しのように笑った。
「でも、なんか抱きつかれたみたいだったよ? ちゃんと抱き止められるように、早くあたしより大きくなってね」
悔しさに、つい口が動いた。精一杯の負け惜しみ。
「陽奈ちゃんも……大きくなるといいね」
さっきの右手の感触を思い出して、自分の胸をさすりながら。
「なっ……! どういう意味それっ!?」
顔を真っ赤にして怒る陽奈ちゃんを見て、僕は少しだけ笑いそうになった。
無神経だったかもしれない。けれど、こんな冗談を言い合える関係になれたことが、少し誇らしくもあった。
夕焼けの空の下、並んで歩く彼女の横顔は、どんな光よりも眩しかった。
あのとき僕が思いとどまったのは、きっと間違いじゃない。そう思えるくらいに。
陽奈ちゃんと慧と僕の三人は、図書室の隅の席に集まって教科書を広げていた。窓際の光が傾きはじめていて、蛍光灯の白い光が次第に目にしみてくる。
「うーん……もうこんな時間か」
時計を見て呟いた僕に、陽奈ちゃんが顔を上げる。
「ねえ、放課後だけじゃ時間足りなくない? 試験範囲、まだぜんぜん終わってないし」
「だな。俺もこのペースだとちょっとやばい」
そんなやり取りを見て、僕は少し考えてから口を開いた。
「だったら……今度の休日、うちで勉強会でもしない? 午前から集まれば進むと思うし」
言うや否や、陽奈ちゃんがぱっと笑顔を見せる。
「いいね! 賛成!」
あまりにも即答だったから、心臓が跳ね上がった。
けれど慧は、ほんのわずか間を置いてから肩をすくめる。
「……悪い、俺はいいや。予定あるから」
その言い方がどこか含みをもたせていて、僕は何も返せなかった。
帰り道、慧は信号待ちで不意に振り返り、僕だけに見える角度で親指を立ててきた。にやりと笑って。
あれはたぶん……「お前、頑張れよ」って意味だったんだろう。いちいち格好つけるのが、実に慧らしい。
そして迎えた当日。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、僕は緊張で喉がからからになった。ドアを開けると、そこに立っていた陽奈ちゃんは――いつもの部活帰りの姿とはまるで違っていた。
白いブラウスに、深い紺のスカート。細めのリボンで結ばれたツインテールが、ふわっと風に揺れる。
思わず言葉が出なかった僕に、陽奈ちゃんが「おはよ」と微笑む。
「あ……その、今日……すごく可愛いね」
やっとの思いで口から出た言葉に、彼女は慌てて顔を赤くして「ふ、普通だし!」と返してきた。
その照れた仕草がまた、息を呑むほど可憐だった。
僕の部屋に入ると、陽奈ちゃんは興味津々といった様子で見渡した。
机の上のノート、本棚、そして――フォトフレーム。
夏祭りの夜に撮った、ツインテールを揺らす彼女の写真だ。見られると思うと照れくさかったけれど、結局そのままにしておいたんだった。
でも、それをちらりと見た陽奈ちゃんの口元が緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。やっぱり、片づけないで正解だった。
勉強会は、思った以上に順調だった。
苦手な数学を教えるとき、僕はできるだけわかりやすく説明しようと必死になった。ノートに図を描きながら「ここがこうだから」と説明していると、陽奈ちゃんが真剣に頷いてくれる。その横顔が眩しくて、説明の途中で声が少し震えた。
慧みたいに運動神経がいいわけじゃないし、背も低い。男らしさなんて、きっとまだ足りていない。
だけど、勉強くらいは役に立てる。ただそれだけでも、自分の居場所があるような気がした。
事件は、不意に起きた。
「ちょっとトイレ借りてもいい?」
そう言って立ち上がった陽奈ちゃんが、すぐにふらついた。
「わっ……!」
足が痺れていたらしい。倒れそうになった彼女を咄嗟に抱き止め――そのまま、勢いでベッドに倒れ込んでしまった。
僕の身体が、陽奈ちゃんの上に覆いかぶさる。
至近距離にある大きな瞳が、すぐに閉じられた。
「……陽奈ちゃん」
気づけば、名前を呼んでいた。
左腕で背中を抱き寄せ、右手は……衝動に負けて胸元へ。ブラウスの上から、ささやかな膨らみを軽くなぞった瞬間、陽奈ちゃんの吐息が耳にかかる。拒まれるどころか、甘く震える声が漏れて。
理性が焼き切れそうだった。陽奈ちゃんのとろけるような表情がすべてを語っている。きっと僕の意志ひとつで、キスだって、その先だって受け入れてくれそうなことを。
でも――だめだ。こんなことで。こんなハプニングで。
必死に頭を振り、僕は身体を起こした。
「ご、ごめん……!」
謝る声は、情けないほど裏返っていた。顔も真っ赤だったと思う。
陽奈ちゃんは何も言わず、少し微笑んだように見えた。彼女の瞳は穏やかで、それがかえって胸の奥を締めつけた。
その後の時間は、ただ気まずさだけが流れていった。教科書を開いても文字が目に入らない。彼女も同じだったと思う。
結局、予定より早く切り上げることになり、僕は「送っていくよ」と言った。
夕暮れの道。並んで歩きながら、沈黙が続く。
やがて陽奈ちゃんが、ぽつりと言った。
「さっき……ありがとね」
その言葉に、胸が締めつけられる。僕は「ごめん」としか返せなかった。
短い沈黙ののち、陽奈ちゃんが照れ隠しのように笑った。
「でも、なんか抱きつかれたみたいだったよ? ちゃんと抱き止められるように、早くあたしより大きくなってね」
悔しさに、つい口が動いた。精一杯の負け惜しみ。
「陽奈ちゃんも……大きくなるといいね」
さっきの右手の感触を思い出して、自分の胸をさすりながら。
「なっ……! どういう意味それっ!?」
顔を真っ赤にして怒る陽奈ちゃんを見て、僕は少しだけ笑いそうになった。
無神経だったかもしれない。けれど、こんな冗談を言い合える関係になれたことが、少し誇らしくもあった。
夕焼けの空の下、並んで歩く彼女の横顔は、どんな光よりも眩しかった。
あのとき僕が思いとどまったのは、きっと間違いじゃない。そう思えるくらいに。

