台本の読み合わせは順調に進んでいた。
 ――ただ、ひとつの場面を除いて。
 クライマックスの「姫と王子が永遠の愛を誓うキスシーン」。
 練習中、その部分になると僕も陽奈ちゃんも途端に黙り込んで、互いに目を逸らしてしまう。
「……ここ、どうする?」
「えっと……」
 居心地の悪い沈黙が流れる。すると演出係の女子が、「大丈夫だよ、ライトと立ち位置でごまかすから」と説明してくれた。
 僕は心底安堵した。
 ……いや、少しだけ、ほんの少しだけ、胸の奥が空洞になったような気がした。けれど、さすがに本当にキスするなんて無理だ。
 お互いに顔を見合わせて苦笑い。緊張で固まっていた空気が、ほんの少しだけほぐれた。

 衣装合わせの日。僕の目に飛び込んできたのは、純白のドレスを着た陽奈ちゃんの姿だった。
 いつもの元気なツインテールが、ドレスに合わせてリボンで丁寧に結い直されている。白い布に映える黒髪が、柔らかく揺れて光をまとっていた。
 周囲の歓声は当然だった。女子たちからは褒めちぎられていて、男子たちはただただ見とれている。
 もちろん僕もそのうちの一人。すぐ隣から彼女の可憐な姿を見て、呆然と立ち尽くすばかりだった。
(……本当に、物語の中から抜け出してきたお姫様みたいだ)
 そう思うと同時に、自分の姿がひどく頼りなく思えてしまう。
 王子の衣装を着せられた僕は、背筋を伸ばしてみても、どうしても様にならない気がした。
 でも、そのとき陽奈ちゃんがちらっと僕を見て、ほんのり口元を緩めてくれた。「悪くない」って思ってくれているような、そんな笑みだった。
 それだけでも自信をもらえた気がして、胸の奥がじんわり熱くなる。
 彼女の期待に応えられるように、僕なりの格好いい王子を演じてみせよう。

 いよいよ本番の日。講堂のざわめき、ライトの眩しさ、舞台袖で聞こえるクラスメイトたちの小声。すべてが鼓動を早める。
 幕が上がった瞬間、不思議と緊張が霧のように消えていった。台本をなぞるように言葉が口をつき、役になりきる感覚が自分にもあることに驚いた。
 観客席から笑いや拍手が湧くたびに、胸の奥で何かが広がっていく。演劇は間違いなく成功していた。
 そして、いよいよクライマックス。台本で一番の山場、王子が姫を救い出し、永遠の愛を誓う場面。
 ……練習通りなら問題ない。
 互いに顔を近づけて、角度を作って、照明で「キスをしているように見せる」。それだけ。
 そう自分に言い聞かせて陽奈ちゃんを見た瞬間、全身の血が逆流するみたいに熱くなった。
 真剣な眼差し。僕をまっすぐ射抜く漆黒の瞳。ツインテールの先が肩に触れて揺れ、頬がうっすらと桜色に染まっている。
(陽奈ちゃん……)
 声にならない感情が込み上げた次の瞬間。
 ほんの一瞬。
 けれど確かに、柔らかな感触が唇に触れた。
(――っ!?)
 時間が止まったように感じた。
 観客席からは「おおっ」と歓声が上がる。もちろん誰も気づいていない。あくまで「演出通り」にしか見えなかったはずだ。
 でも、僕にはわかってしまった。これは演技じゃない。陽奈ちゃんが、自分の意志で――。
 心臓が爆発しそうなほどに跳ねた。膝が震えて、立っていられるのがやっとだった。

 幕が下りた後も、僕は頭の中が真っ白だった。
「……あの、いまの……」
「え? 何のこと?」
 陽奈ちゃんは平然とした顔をしている。けれど、真っ赤に染まった頬と、落ち着かない視線がすべてを語っていた。
 観客の拍手よりも、僕の胸の中で鳴り響いた拍手の方がずっと大きかった。

 しばらくして、足を引きずりながら慧が近づいてきた。
「……かっこよかったぜ。正直、俺がやるよりもお似合いだったな」
 不意にそう言われて、返事ができなかった。ついこの前まで、僕が王子を演じるなんて無謀だと思っていたのだから。
「そ、それは……言いすぎだよ」
 そう絞り出すのが精一杯だった。
 すると慧はにやりと笑って、背中をぽんと叩く。そんな僕たちを見ている陽奈ちゃんが、どこか満足そうに微笑む。
 なんだか、ここ最近胸につかえていたものが、ふっと消えてなくなったような気がした。
 そして何より――今まで遠くから眺めることが多かった歓喜の輪。その中心で、自分が笑えていることが誇らしかった。
 ――少し背筋が伸びた気がする。
 陽奈ちゃんがくれた一瞬のキス。その瑞々しい温度を唇に残したまま、僕は静かな余韻に包まれていた。