僕とあの子のツインテール

 放課後の校舎は、どこかひんやりと静まり返っていた。
 みんな部活や塾に行ってしまい、残っているのは雑巾がけの湿った匂いと、夕陽に照らされた長い廊下の影だけだ。
 僕は、うっかり机に置き忘れたノートを取りに、再び教室へと足を向けていた。
 ただの忘れ物。けれど、その足取りは妙に軽かった。
 ――最近の僕と陽奈ちゃん、なんだかいい感じだ。
 夏祭りでのこと、林間学校でのこと。
 ほんの短い間に、あんなにも特別な思い出を重ねることができた。席も変わらず隣同士。
 彼女が見せてくれる笑顔も、声の調子も、僕だけに向けられているように思えてならない。
(もしかして……陽奈ちゃんも、僕のことを……?)
 思い上がりも甚だしいけど、それでも少しは期待してしまう自分がいる。
 まるで夢を見ているような足取りで、僕は教室へと続く廊下を進んでいった。

 ふと、前方から声が聞こえてきた。
「……ははっ」
「もうっ!」
 はしゃぐような陽奈ちゃんの声と、それに応えるような慧の笑い声。教室のほうからだ。
 胸がざわめいた。
 楽しそうな声色だけで、二人の距離の近さが伝わってくる。
 内容までは聞き取れない。けれど――まるで僕の知らない場所で、二人だけの時間を育んでいるように感じられた。
 足が止まる。聞き耳を立ててはいけないと頭ではわかっているのに、どうしても離れることができない。
 そして――。
「ほら、こっちだ」
 慧の声が、やけに甘やかに響いた。まるで、誰かを抱き寄せるときのように。
 心臓が跳ねた。
 僕は我慢できず、そっと教室を覗き込んでしまった。

 西日に照らされた光景が、瞳に焼きついた。
 陽奈ちゃんの背中が、慧の胸へと寄りかかっている。白いうなじが無防備にさらされ、夕陽に透けたツインテールは、柔らかく肩を撫でて揺れていた。
 慧は、そんな彼女の背中に片手を回すように伸ばす。
 陽奈ちゃんは、背の高い慧の顔を見上げている。
 息のかかりそうな距離。二人はそのまま抱き合うような体勢で――。
(……キス、してる……?)
 頭の中が真っ白になった。
 胸の奥に冷たい刃が突き立てられたようで、呼吸ができなくなる。
 眩しかったから見たのは一瞬。だから見間違いかもしれない。見間違いであってほしい。
 だけど、もう一度見て確かめる勇気はなかった。それ以上に、僕はこの場にいてはならないような、そんな気がした。
 気づけば僕は忘れ物も取らずに、踵を返して走り出していた。足音が廊下に響くたびに、胸の奥で何かがぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
(僕なんかじゃ……陽奈ちゃんの隣には立てないんだ……)
 あんなにも楽しそうに、自然に並んでいる姿を見せられてしまったら――。
 僕がどれだけ思い出を積み重ねても、到底敵わない。

 その夜、僕は悪夢を見た。
 放課後の教室。そこには炎のように赤い夕陽が差し込み、窓ガラスが血の色に染まっている。そして、黒板の前に寄り添う二つの影。
 陽奈ちゃんが――慧に抱きしめられていた。
「やめろ……!」
 叫んでも、声は届かない。喉が張り裂けそうなのに、二人には届かず、ただ虚空に溶けていく。
 足を踏み出そうとしても、床が泥のように重く、まるで前に進めない。必死に手を伸ばしても、その指先は二人の背に触れることすらできない。
「陽奈ちゃん!」
 何度も叫んでも、二人には届かない。
 慧の腕の中、陽奈ちゃんは抵抗することなく身を預けている。
 線香花火の奥に垣間見た“純白の秘密”が、慧の手によって容易く剥ぎ取られて。
 湯けむりに浮かんだ“桜色のつぼみ”さえも、彼の手のひらに包まれて、弄ばれている。
 僕だけが知っていたはずの彼女の秘密が、あっさりと奪われていくのをまざまざと見せつけられる。胸が潰れるように苦しく、目の奥が焼けるほど熱かった。
「やめてくれ……やめてくれ!」
 必死に声を上げても、二人はただ互いを求め合い、重なり合うばかり。
 いつしか僕の膝は崩れ落ち、床にひれ伏していた。立ち上がる力も、言葉も出てこない。無力感が全身を支配する。
 やがて机の上に押し倒されるように、陽奈ちゃんの身体が慧に覆い被さられた。
 その弾みで、結わえていたツインテールがほどける。長い髪がさらさらと机に広がり、夕陽に照らされて輝いた。
 それはあまりにも艶美で、そして残酷で。
 ヘアゴムが教室の冷たい床にスローモーションで落ちた瞬間、ぷつん、と。
 聞こえるはずのない音が響いた――。

「――っ!」
 冷や汗で全身がびっしょりになって、僕は目を覚ました。
 心臓が激しく脈打ち、息は荒い。夢だったと気づいても、胸の奥の痛みは消えない。
(……あんなの、夢に決まってる……夢でしかない……)
 それでも、もし現実になったらどうする?
 そんな不安が、黒い影のように胸の中に居座って離れなかった。

 夜明け前の静かな部屋。
 僕はシーツを握りしめたまま、眠れずにただじっと天井を見つめていた。
 あれは悪夢なんかじゃない。僕に提示された、ひとつの未来だ。
 ――いつまでも卑屈なままでいいのか。
 ――本当に陽奈ちゃんを大切に思うなら、慧に怯えてばかりでいいのか。
 胸の奥で、そんな問いが何度も反響していた。