二泊三日の林間学校の夜。外に出ると、空気はひんやりと澄んでいた。
 頭上には、都会では見られないほどの星々が、これでもかと瞬いている。夜空を埋め尽くす光の粒に、思わず息を呑む。目を逸らすのが惜しいほどに、眩しくて、遠くて、手を伸ばしても届かない。
 広場の中央では、炎が高く燃え上がっていた。ぱちぱちと薪がはぜる音が夜気を震わせ、火の粉が舞い上がっては星空へと溶けていく。炎と星が呼応しているみたいで、不思議と胸が騒いだ。
 やがて先生の合図とともに音楽が流れ始め、みんなが手を取り合って輪をつくる。フォークダンスの始まりだ。
 正直、気恥ずかしい行事だとばかり思っていた。だけど、こうして満天の星空の下、猛る炎を囲んで踊り始めると、自然と気分が盛り上がってくる。
 それに――。
 僕の数人後ろで楽しそうに踊っている、陽奈ちゃん。ペアが交代するたびに、つい振り返ってしまう。
 心なしか少し乱れているように見える、いつものツインテール。炎に照らされた横顔が少しだけ大人びて見えて、目を奪われる。順番が近づくにつれ、気持ちが昂る。
 一瞬視線が重なった気がして、僕は慌てて前を向く。彼女も僕のことを少しは意識してくれているのだろうか。

 陽奈ちゃんが僕の真横に立った。近づいてきているのはわかっていたはずなのに、いざ順番が来ると鼓動がひときわ大きく跳ね上がった。
 炎の光でオレンジ色に染まった頬が、きらきらと輝いて見える。夜空の星よりも、ずっと近くで、ずっと眩しく。
 目の前に差し出された手に息が詰まった。
 小さな手。白くて細い指。
 おそるおそる握ると、柔らかさの中に意外なほどしっかりした感触が返ってきた。
「……」
 何も言えずに顔を上げると、陽奈ちゃんが少し照れたように笑っていた。
 普段の教室で過ごす毎日と比べたら、ほんの短い時間だ。それなのに、二人で手を取り合って踊るだけで何かが伝わってくるようで、頭が真っ白になる。
 その瞬間だった。
「――あたし、今日、お風呂まだなんだ」
 不意にそんな言葉が彼女の口からこぼれた。
 一体どうして、僕にそんなことを言ったんだろう。
 意味なんてないのかもしれない。けれど、彼女の無邪気な告白に、心がざわついた。なんでもない一言なのに、妙に意識してしまう。
 しかし、僕が言葉に詰まっているうちにペア交代になり、すぐに別の子と手を繋ぐ流れに押し流されてしまった。
 残されたのは、握った手のぬくもりと、意味のわからない言葉だけ。胸の奥が妙にざわざわして、落ち着かない。
 お風呂に入っていないなんて、普通は言わないことだ。それを僕に? なぜ?
 考えれば考えるほど混乱して、踊りのステップなんてもうどうでもよくなってしまった。

 キャンプファイアーが終わり、モヤモヤした気持ちを抱えたまま部屋に戻る。
 周囲は騒がしく布団を敷いたりトランプに興じたりしている。僕も形だけ布団に潜り込んだけれど、瞼はまったく閉じない。
 ——「お風呂まだなんだ」。
 さっきの陽奈ちゃんの一言が耳に焼き付いて、眠りを遠ざける。
 気づけば布団を抜け出していた。
 月明かりの差し込む廊下を、そっと歩く。足が向かったのは、大浴場の方角だった。
 理由は自分でもよくわからない。ただ、さっきの言葉に引っ張られるように。
 大浴場の前まで来ると、扉の隙間からほのかに湯気が漂っている。
 けれど、中からは物音ひとつしない。こんな時間に誰がいるはずもないと思った瞬間、足が止まった。
 ――人影。
 浴衣の裾がちらりと揺れて、こちらに背を向けている。見慣れたツインテールに、透き通るような白いうなじ。まさかという気持ちと、やはりという気持ちが入り混じる。
「……陽奈ちゃん?」
 振り返った彼女が、驚いた顔をした。けれど、次の瞬間、その表情はどこか安心したように和らいだ。
 薄暗い旅館の脱衣場でも、やや幼くも上品な彼女の笑顔はまばゆく輝いている。僕の目には、どんな星よりも鮮烈に。
 胸の鼓動が、今まで以上に速くなっていく。
 林間学校の夜は、まだ終わりそうになかった。