朝の光がカーテンの隙間からこぼれ、リビングの床を柔らかく照らしていた。
私は湯気の立つコーヒーを一口だけ飲み、カップを置く。今日は大事な日――陽子の小学校の入学式だ。
「陽子、こっちにおいで。髪を結んであげるね」
呼ぶと、彼女はパタパタと軽い足音を響かせて駆けてきた。
まだ小さな身体には、大きくて真新しい赤のランドセルが背負われている。そのアンバランスさが、胸をぎゅっと掴まれるほど愛おしい。
私は鏡の前に椅子を寄せ、陽子をそっと座らせた。
小さな肩に手を置きながら、櫛でさらさらの髪を梳く。まだ子供らしい柔らかさの残る髪。
そこに、私はずっと仕舞っていたヘアゴムを取り出した。淡いピンクのリボンが付いた、少し色褪せたゴム――中学の頃、朋希から初めて贈られたものだ。
「今日は特別だからね。ツインテールにしてあげる」
「ツインテール?」
私は微笑みながら陽子の髪を左右で分け、耳の横あたりで丁寧に結んでいく。高すぎず低すぎず、私の――大きなこだわり。
やがてリボンが小さく揺れ、娘の黒髪を彩った。
「わぁ! かわいい!」
鏡を見て、陽子がぱっと笑顔を咲かせた。椅子から飛び降りて、くるくると回る。そのたびに左右のツインテールが弾んで、彼女自身も嬉しそうに揺れる。
「ねえママ、これすごい好き!」
「そうでしょ? ママも昔ね、その髪型をパパに褒めてもらったんだよ」
私は引き出しの奥から、そっと小さな紙切れを取り出した。
すっかり古びたその紙には、拙い字で「髪型、可愛いね」とだけ書かれている。中学生の朋希が、精一杯の勇気を出して私に渡してくれた言葉。
そのときの胸の高鳴りと、真っ赤になっていた彼の顔。今でも鮮明に覚えている。
「陽奈ちゃん、そんな昔の出さないでよ」
洗面所から戻ってきた朋希が、ネクタイを直しながら私の手元を見て照れ笑いした。
スーツ姿の彼はすっかり大人の男性で、いつも私を支えてくれる夫であり、頼れる父親でもあるのに――どこか、中学生の頃と同じ不器用さを残しているのが彼らしい。
「ふふっ、いいじゃない。私にとっては宝物なんだから」
私はまっすぐに朋希の目を見つめ、ふっと笑みをこぼした。
彼は一瞬言葉を失い、やがて少しだけ赤くなって「そうだね」と小さく頷く。その表情は、あの頃の朋希そのものだった。
「パパ、見て! ツインテールだって!」
「似合ってるよ。すごく可愛いね」
朋希に褒められた陽子が、ひときわ笑顔を弾ませる。
私たち二人を結んだ大切な象徴が、今こうして娘へと受け継がれていることに、胸が熱くなった。
「じゃあ、行こうか。忘れ物は無いね?」
「うん!」
「はーい!」
三人で家を出る。春の空気は少しひんやりしているけれど、桜並木が道を彩り、心を温めてくれる。
陽子の小さな両手。右手を私が握り、左手は朋希が握る。三人で並んで歩く道は、そのまま未来へ続いているように思えた。
信号で立ち止まる。
ふと見上げた桜に、私は思い出した。初めて二人きりで下校した日に歩いたのも、こんな並木道だったことを。
あの頃は緊張して、ほとんど話せなかった。けれど今となれば、それすらも愛おしい記憶だ。
「ねえ、覚えてる? 初めて二人きりで歩いたとき、全然話せなかったよね」
「……うん、ドキドキして、何も言えなかった」
「私も。あの頃は本当に、青春だったね」
二人で見つめ合い、くすくす笑い合う。
そんな私たちを、陽子は不思議そうに見て「なになに?」と首をかしげる。私は朋希と一緒に「内緒」とだけ答えて、娘の髪を優しく撫でた。小さなツインテールが、春風に揺れる。
やがて信号が青に変わる。私たちはまた歩き出した。
「でも、いまは陽子と三人だからね」
私はそう口にして、自然と笑みがこぼれた。
あの日の淡く切ない初恋が、いまはこんなにも温かな家庭へと繋がっている。
今まで紡いできた、朋希と私の二人の物語。その絆は、間違いなく生き続けている。
――これからも、きっと。
私は湯気の立つコーヒーを一口だけ飲み、カップを置く。今日は大事な日――陽子の小学校の入学式だ。
「陽子、こっちにおいで。髪を結んであげるね」
呼ぶと、彼女はパタパタと軽い足音を響かせて駆けてきた。
まだ小さな身体には、大きくて真新しい赤のランドセルが背負われている。そのアンバランスさが、胸をぎゅっと掴まれるほど愛おしい。
私は鏡の前に椅子を寄せ、陽子をそっと座らせた。
小さな肩に手を置きながら、櫛でさらさらの髪を梳く。まだ子供らしい柔らかさの残る髪。
そこに、私はずっと仕舞っていたヘアゴムを取り出した。淡いピンクのリボンが付いた、少し色褪せたゴム――中学の頃、朋希から初めて贈られたものだ。
「今日は特別だからね。ツインテールにしてあげる」
「ツインテール?」
私は微笑みながら陽子の髪を左右で分け、耳の横あたりで丁寧に結んでいく。高すぎず低すぎず、私の――大きなこだわり。
やがてリボンが小さく揺れ、娘の黒髪を彩った。
「わぁ! かわいい!」
鏡を見て、陽子がぱっと笑顔を咲かせた。椅子から飛び降りて、くるくると回る。そのたびに左右のツインテールが弾んで、彼女自身も嬉しそうに揺れる。
「ねえママ、これすごい好き!」
「そうでしょ? ママも昔ね、その髪型をパパに褒めてもらったんだよ」
私は引き出しの奥から、そっと小さな紙切れを取り出した。
すっかり古びたその紙には、拙い字で「髪型、可愛いね」とだけ書かれている。中学生の朋希が、精一杯の勇気を出して私に渡してくれた言葉。
そのときの胸の高鳴りと、真っ赤になっていた彼の顔。今でも鮮明に覚えている。
「陽奈ちゃん、そんな昔の出さないでよ」
洗面所から戻ってきた朋希が、ネクタイを直しながら私の手元を見て照れ笑いした。
スーツ姿の彼はすっかり大人の男性で、いつも私を支えてくれる夫であり、頼れる父親でもあるのに――どこか、中学生の頃と同じ不器用さを残しているのが彼らしい。
「ふふっ、いいじゃない。私にとっては宝物なんだから」
私はまっすぐに朋希の目を見つめ、ふっと笑みをこぼした。
彼は一瞬言葉を失い、やがて少しだけ赤くなって「そうだね」と小さく頷く。その表情は、あの頃の朋希そのものだった。
「パパ、見て! ツインテールだって!」
「似合ってるよ。すごく可愛いね」
朋希に褒められた陽子が、ひときわ笑顔を弾ませる。
私たち二人を結んだ大切な象徴が、今こうして娘へと受け継がれていることに、胸が熱くなった。
「じゃあ、行こうか。忘れ物は無いね?」
「うん!」
「はーい!」
三人で家を出る。春の空気は少しひんやりしているけれど、桜並木が道を彩り、心を温めてくれる。
陽子の小さな両手。右手を私が握り、左手は朋希が握る。三人で並んで歩く道は、そのまま未来へ続いているように思えた。
信号で立ち止まる。
ふと見上げた桜に、私は思い出した。初めて二人きりで下校した日に歩いたのも、こんな並木道だったことを。
あの頃は緊張して、ほとんど話せなかった。けれど今となれば、それすらも愛おしい記憶だ。
「ねえ、覚えてる? 初めて二人きりで歩いたとき、全然話せなかったよね」
「……うん、ドキドキして、何も言えなかった」
「私も。あの頃は本当に、青春だったね」
二人で見つめ合い、くすくす笑い合う。
そんな私たちを、陽子は不思議そうに見て「なになに?」と首をかしげる。私は朋希と一緒に「内緒」とだけ答えて、娘の髪を優しく撫でた。小さなツインテールが、春風に揺れる。
やがて信号が青に変わる。私たちはまた歩き出した。
「でも、いまは陽子と三人だからね」
私はそう口にして、自然と笑みがこぼれた。
あの日の淡く切ない初恋が、いまはこんなにも温かな家庭へと繋がっている。
今まで紡いできた、朋希と私の二人の物語。その絆は、間違いなく生き続けている。
――これからも、きっと。

