放課後の教室。
窓から差し込む西日が、机の影を長く伸ばしていた。
クラスのほとんどは部活や塾に向かっていて、残っているのはあたしと慧だけ。なんとなく気を抜いた雰囲気で、ぽつりぽつりと会話をしていた。
「なあ、今度の試合、応援に来てくれないか?」
「えー? あたしの大会には来なかったくせに?」
「わりぃ、忘れてた」
「もうっ!」
軽く拗ねてみせながら、慧の肩をぱしんと叩いた。
あたしは陸上部、慧はサッカー部。お互い部活に打ち込んでるからこそ、こんなやり取りも自然にできる。
――そのときだった。
「きゃっ!」
窓から突然、虫が飛び込んできて、あたしの背中のあたりをぶんぶん飛び回った。思わず肩をすくめて身をよじる。
「おっと、待て」
慧が片手を回して、あたしの背中のほうへ伸ばした。
その拍子に、あたしの身体が自然と前に出て、慧との距離が一気に縮まった。ツインテールが揺れて、彼のたくましい腕を撫でる。
「ほら、こっちだ」
虫を追い払うための声。なのに、なんだか一瞬あたしに言われたように聞こえて、思わず慧の顔を見上げる。気づけば息のかかるくらいの距離にいて、ちょっとドキッとした。
もし誰かが廊下からこの場面を見たら――どう見えるんだろう。
(……? なんか、視線の気配がしたような……)
振り返ってみたけど、そこには誰もいなかった。
虫はすぐに窓の外へ飛び去り、あたしと慧は顔を見合わせて苦笑い。
「もう、びっくりした」
「はは、悪い悪い」
慧はいつもの軽い調子。なんか損した気分。
ただのハプニング。あたしにとっては、本当にそれだけのことだった。
あたしはその夜、なんだか変な夢を見た。
変というか――ちょっと大人っぽい夢。
いつもの教室で、窓の外から夕焼けの光が差し込んでて、机と椅子の影が細長く伸びていた。なのに、あたしは制服のままで、誰かと二人きりだった。
相手の顔は、どうしても見えない。
目を凝らしても、光に遮られて輪郭すら曖昧で、はっきりしないの。でも、不思議なことに、その人の手はしっかりとあたしの肩や腕に触れていて――どこか頼りない、ぎこちない手つきなのに、包まれているとすごく安心できた。
こんな状況でも、「あ、これってもしかして抱きしめられてるんだ」って、頭のどこかで冷静に考えていた。
ふわふわした気分のまま、身体の力が抜けていくみたいで。普段は冗談っぽく笑い飛ばしてしまうようなことなのに、そのときのあたしは、笑おうとしても笑えなかった。
その人の腕に抱かれていると、やさしい声が耳元に落ちてきた。
――「陽奈ちゃん」
ぞくりと背筋が震える。
夢の中なのに、あたしは思わず頬を赤くした気がする。
その呼び方、あたしの知っている「誰か」しか使わないもの。けれど顔はやっぱり見えない。声も少し霞んでいて、はっきり聞こえるようで聞こえない。
(誰だっけ……ずっと近くにいたはずなのに、おかしいな)
それでも確かに、自分が一番慣れ親しんだ呼び方だった。胸の奥で小さな火が灯るような感覚があって、あたしは目を閉じて、その声に身を委ねてしまう。
やがて、唇が近づいてきた。
お互いの息が絡まって、唾液が混じり合いそうな長いキスをする。あたしが前に「いつか」と思っていたものに、ついに触れてしまった気がした。
夢の中だから現実味が薄いのに、唇が重なった瞬間の熱さだけは、どうしてかすごく鮮明で、記憶に焼き付いていくみたいだった。
(だけど、“いつか”って……いったいいつのこと?)
あたしは、そんなことをぼんやり考えていた。
まるで、自分がすでに誰かとそういう約束をしていたかのような、不思議な既視感。思い出そうとしても、霞がかったように思い出せない。
キスが終わると、その名残を惜しむかのように、唾液の糸があたしとこの人の唇を結ぶ。
糸は西日を浴びて金色に輝く。あたしが積み重ねてきた思い出と同じように、きらきらと。
あっ、そこは――。
その人の指先が、制服の裾からそっと忍び込んでくる。
思わず息を呑んだ。
大切に守ってきた、まだ誰にも触れられたことのない場所――あたしの“秘密”の部分に、そっと触れられた気がしたのだ。
手つきは拙いけど、それ以上に優しくて、大切にされてるんだなってことが伝わってくる。初めての感覚のはずなのに、怖いという感情は全然湧かない。
それどころか――やっと触れてもらえた。やっと抱きしめてもらえた。そんな気持ちに満たされて、胸がじんわりと熱を帯びていく。
(……あれ? “やっと”って、どういうことだろう)
あたしはぼんやりと、でも幸せに包まれたまま、さらに強く抱きしめられて。
――そこで夢は、ふっと終わりを告げる。
目を覚ましたとき、胸の奥がくすぐったくて、笑いたいのか泣きたいのか自分でもよく分からなかった。
あたしを抱きしめていた人。
顔は見えなかったのに、肝心なことは何も思い出せないのに、不思議と「あの人だ」と思えてしまう。
呼び方も、声も、抱きしめ方も……。
それは、きっと。
窓から差し込む西日が、机の影を長く伸ばしていた。
クラスのほとんどは部活や塾に向かっていて、残っているのはあたしと慧だけ。なんとなく気を抜いた雰囲気で、ぽつりぽつりと会話をしていた。
「なあ、今度の試合、応援に来てくれないか?」
「えー? あたしの大会には来なかったくせに?」
「わりぃ、忘れてた」
「もうっ!」
軽く拗ねてみせながら、慧の肩をぱしんと叩いた。
あたしは陸上部、慧はサッカー部。お互い部活に打ち込んでるからこそ、こんなやり取りも自然にできる。
――そのときだった。
「きゃっ!」
窓から突然、虫が飛び込んできて、あたしの背中のあたりをぶんぶん飛び回った。思わず肩をすくめて身をよじる。
「おっと、待て」
慧が片手を回して、あたしの背中のほうへ伸ばした。
その拍子に、あたしの身体が自然と前に出て、慧との距離が一気に縮まった。ツインテールが揺れて、彼のたくましい腕を撫でる。
「ほら、こっちだ」
虫を追い払うための声。なのに、なんだか一瞬あたしに言われたように聞こえて、思わず慧の顔を見上げる。気づけば息のかかるくらいの距離にいて、ちょっとドキッとした。
もし誰かが廊下からこの場面を見たら――どう見えるんだろう。
(……? なんか、視線の気配がしたような……)
振り返ってみたけど、そこには誰もいなかった。
虫はすぐに窓の外へ飛び去り、あたしと慧は顔を見合わせて苦笑い。
「もう、びっくりした」
「はは、悪い悪い」
慧はいつもの軽い調子。なんか損した気分。
ただのハプニング。あたしにとっては、本当にそれだけのことだった。
あたしはその夜、なんだか変な夢を見た。
変というか――ちょっと大人っぽい夢。
いつもの教室で、窓の外から夕焼けの光が差し込んでて、机と椅子の影が細長く伸びていた。なのに、あたしは制服のままで、誰かと二人きりだった。
相手の顔は、どうしても見えない。
目を凝らしても、光に遮られて輪郭すら曖昧で、はっきりしないの。でも、不思議なことに、その人の手はしっかりとあたしの肩や腕に触れていて――どこか頼りない、ぎこちない手つきなのに、包まれているとすごく安心できた。
こんな状況でも、「あ、これってもしかして抱きしめられてるんだ」って、頭のどこかで冷静に考えていた。
ふわふわした気分のまま、身体の力が抜けていくみたいで。普段は冗談っぽく笑い飛ばしてしまうようなことなのに、そのときのあたしは、笑おうとしても笑えなかった。
その人の腕に抱かれていると、やさしい声が耳元に落ちてきた。
――「陽奈ちゃん」
ぞくりと背筋が震える。
夢の中なのに、あたしは思わず頬を赤くした気がする。
その呼び方、あたしの知っている「誰か」しか使わないもの。けれど顔はやっぱり見えない。声も少し霞んでいて、はっきり聞こえるようで聞こえない。
(誰だっけ……ずっと近くにいたはずなのに、おかしいな)
それでも確かに、自分が一番慣れ親しんだ呼び方だった。胸の奥で小さな火が灯るような感覚があって、あたしは目を閉じて、その声に身を委ねてしまう。
やがて、唇が近づいてきた。
お互いの息が絡まって、唾液が混じり合いそうな長いキスをする。あたしが前に「いつか」と思っていたものに、ついに触れてしまった気がした。
夢の中だから現実味が薄いのに、唇が重なった瞬間の熱さだけは、どうしてかすごく鮮明で、記憶に焼き付いていくみたいだった。
(だけど、“いつか”って……いったいいつのこと?)
あたしは、そんなことをぼんやり考えていた。
まるで、自分がすでに誰かとそういう約束をしていたかのような、不思議な既視感。思い出そうとしても、霞がかったように思い出せない。
キスが終わると、その名残を惜しむかのように、唾液の糸があたしとこの人の唇を結ぶ。
糸は西日を浴びて金色に輝く。あたしが積み重ねてきた思い出と同じように、きらきらと。
あっ、そこは――。
その人の指先が、制服の裾からそっと忍び込んでくる。
思わず息を呑んだ。
大切に守ってきた、まだ誰にも触れられたことのない場所――あたしの“秘密”の部分に、そっと触れられた気がしたのだ。
手つきは拙いけど、それ以上に優しくて、大切にされてるんだなってことが伝わってくる。初めての感覚のはずなのに、怖いという感情は全然湧かない。
それどころか――やっと触れてもらえた。やっと抱きしめてもらえた。そんな気持ちに満たされて、胸がじんわりと熱を帯びていく。
(……あれ? “やっと”って、どういうことだろう)
あたしはぼんやりと、でも幸せに包まれたまま、さらに強く抱きしめられて。
――そこで夢は、ふっと終わりを告げる。
目を覚ましたとき、胸の奥がくすぐったくて、笑いたいのか泣きたいのか自分でもよく分からなかった。
あたしを抱きしめていた人。
顔は見えなかったのに、肝心なことは何も思い出せないのに、不思議と「あの人だ」と思えてしまう。
呼び方も、声も、抱きしめ方も……。
それは、きっと。

