雨がしとしとと降る夜だった。
 御園玲奈は、デパートの企画会議を終えて屋敷に戻る途中だった。
 タクシーの窓に映る自分の姿は、どこか疲れて見える。
 それでも――仕事で意見を求められる喜びが、心の奥で小さな灯をともしていた。

(少しは……役に立てているのかな)

 だが、その温もりは、屋敷の玄関で出迎えた侍女の言葉にかき消される。

「奥様、旦那様は今夜遅くなると……。お取引先の方とお会いになっているそうです」

「そう……」
 玲奈は微笑を作って答える。
 だが胸の奥では、ざらついた感情が広がっていた。



 翌日、玲奈は偶然その“答え”を目にしてしまう。

 打ち合わせ帰りに立ち寄ったホテルのラウンジ。
 ふと視線を横にやると、ガラス越しに見慣れた背中があった。
 篠宮透真。

 そして、その隣に座るのは――高遠美咲。

 二人はワインを傾けながら、顔を近づけて何かを語り合っていた。
 美咲の笑顔、透真の真剣な横顔。
 玲奈の心臓が痛みで跳ねる。

(やっぱり……)

 披露宴での囁きが蘇る。
 ――彼はあの香りを忘れられない。

 それが、美咲のためだったのだと確信してしまう。



 足早にその場を立ち去った玲奈は、夜の屋敷で透真を待った。
 けれど、彼が帰宅したのは深夜。
 扉が開いた瞬間、漂ってきたのは――あの香り。

 玲奈の胸が、ちくりと痛む。

「遅かったですね」
 勇気を振り絞って口にした。

 透真は視線を合わせず、上着を脱ぎながら淡々と答える。
「取引先との打ち合わせが長引いた」

「……美咲さんと?」

 その名を出した瞬間、透真の動きが止まった。
 冷たい沈黙。

「……どこで、そのことを」

「偶然、見かけました」
 玲奈は拳を握りしめ、必死に声を抑える。
「あなたが、美咲さんと並んでいるのを……」

 透真は眉をひそめたが、すぐに感情を消した表情に戻る。

「仕事だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 玲奈は必死に笑みを保とうとした。
 けれど、堪えていた涙が今にも溢れそうになる。

「……でも、どうして私には隠すんですか」

「契約だからだ。余計な誤解を招きたくない」

 その言葉は、逆に玲奈の心を焼いた。
 ――私にとっては誤解じゃない。
 目にしたものがすべてなのだと。



 その夜、玲奈は初めて「別居」という言葉を口にした。

「……しばらく、別々に暮らした方がいいのかもしれません」

 静かな声。
 だが、透真の瞳に一瞬だけ揺らぎが走った。

「……勝手に決めるな」

「でも……あなたにとって私はただの契約の花嫁。
 なら、そばにいる意味なんてないでしょう?」

 そう言ってしまった自分の声が震えている。
 透真は口を開きかけたが、言葉は喉で止まり、結局背を向けた。

 その背中を見送りながら、玲奈の胸の中で“誤解の炎”が静かに燃え広がっていった。