夜会から戻った屋敷は、静寂に包まれていた。
 けれど玲奈の胸は、嵐のように荒れていた。
 美咲の囁きが、何度も頭の中で繰り返される。

――「この香りは私との記憶」
――「あなたに透真は抱えきれない」

 ベッドに腰を下ろした玲奈は、両手で顔を覆った。
 信じたい気持ちと、信じられない現実。
 心が真っ二つに裂かれていく。



 一方、透真は執務室で一人、グラスを傾けていた。
 赤い液体が揺れるたび、自分の心のざわめきが映るようだった。

(俺は……何をしている)

 玲奈を守るつもりで作った契約。
 だが、その契約が彼女を苦しめている。
 手を伸ばしたいのに、触れれば壊してしまいそうで。
 冷たい言葉で距離を作ることしかできなかった。

 均衡を保つはずの契約が、いまや二人を引き裂く鎖になっていた。



 翌朝。
 食卓についた玲奈は、無言のままパンを口に運んでいた。
 そこへ透真が現れる。

 侍女たちの前で、二人は“完璧な夫婦”を演じる。
 透真がカップにコーヒーを注ぎ、玲奈の前に置く。
 その仕草ひとつで、周囲は安堵の笑みを浮かべる。

 けれど――。
 玲奈の胸は張り裂けそうだった。

(これは、全部仮面……)

 グラスの中の水面が揺れ、玲奈の視界も滲む。



 午後。
 玲奈はデパートで打ち合わせを終え、スタッフと別れた後、廊下で美咲とすれ違った。

「まあ……偶然ね」
 微笑む美咲。
「今日のあなた、とても頑張っていたわ。……でも無理してない?」

 玲奈は足を止め、答えられなかった。
 美咲の瞳には、余裕と優越感が宿っている。

「透真は、優しいようで残酷よ。あなたが知らない顔を、私は知っている」

 その言葉は玲奈の心を揺らし、均衡を崩す刃となった。



 夜。
 屋敷の廊下で透真と鉢合わせた。
 視線が交わった瞬間、胸が熱くなる。
 けれど、玲奈は口を開いた。

「……私たち、本当にこのままでいいんでしょうか」

 透真は驚いたように目を見開く。
 だがすぐに感情を閉ざし、低い声で答えた。

「契約は契約だ」

「……そうやって、全部“契約”で片づけるんですね」

 玲奈の声は震えていた。
 冷たい空気が二人の間に広がる。

 均衡は――もう保てない。



 その夜、玲奈は眠れぬまま香水の瓶を開いた。
 ふわりと漂う香りが胸を締めつける。

(本当のことを知りたい……でも、知ったら壊れてしまう気がする)

 ガラスの瓶に映る自分の顔は、揺れる影に覆われていた。