翌週、玲奈は新作香水の発表に向けてデパートの特設会場を訪れていた。
 大理石の床にディスプレイされたガラス瓶は、光を受けて宝石のように輝いている。

 その一本を手に取ると、胸の奥がざわめいた。
 ――あの夜、研究室で透真が調合していた香りと同じ。
 そして、美咲が「彼は忘れられない」と囁いた香りでもあった。

(この香りは……一体、誰のために作られたの……?)

 玲奈は目を閉じた。
 甘く切ないその匂いに、心は迷路に迷い込む。
 透真を信じたい。けれど、美咲の存在が疑念となって胸を焼く。



 発表会の準備が進む中、玲奈はスタッフに呼び止められた。
「御園さん、この展示、篠宮社長が特に力を入れているんですよ」
「……社長が?」
「ええ。普段は経営に専念されているのに、珍しいですよね」

 玲奈は言葉を失った。
 透真が――こんなにも直接関わっている?
 その理由は、美咲なのか、それとも……。

 答えを探しても、心は揺れるばかりだった。



 その夜。
 屋敷の廊下で透真とすれ違った。
 玲奈は思わず足を止め、勇気を振り絞って問いかける。

「……どうして、あの香りにこだわるんですか」

 透真は一瞬、瞳を細めた。
 だがすぐに表情を閉ざし、冷たく言い放つ。

「お前には関係ない」

 まただ――。
 玲奈の胸に痛みが走る。

「……私は、ただ知りたいだけです。あなたの“本当の気持ち”を」

 声が震え、涙がにじむ。
 けれど透真は沈黙を貫いた。
 玲奈の心は、さらに深い闇に沈んでいく。



 数日後。
 発表会の前夜、玲奈は偶然ホテルのロビーで透真と美咲が並んでいるのを見た。
 人目を避けるように、二人は小声で何かを話している。
 その距離の近さに、玲奈の胸は締めつけられる。

(やっぱり……美咲さんなんだ)

 逃げるように背を向け、涙をこらえて足を速めた。



 一方で透真は、立ち去る玲奈の背中を見ていた。
 彼女の揺れる瞳、震える肩。
 追いかけたい衝動に駆られながらも、その足は動かない。

(今さら……何を言えばいい)

 自分が作った“契約”という檻。
 それが、彼女との距離をますます遠ざけていた。

 嫉妬と後悔と愛情――。
 その全てを抱えたまま、透真は黙って夜の闇に飲み込まれていった。



 屋敷に戻った玲奈は、自室で香水の瓶を開いた。
 ふわりと漂う香りに、胸が痛む。

(この香りの意味が知りたい……でも、聞けない)

 ガラスのボトルに映る自分の瞳は、迷いに濁っていた。
 揺れる心の行方は、まだどこにも辿り着けないままだった。