キスしたい。抱き締めたい。このまま、彼の手の中に絡め取られて落ちてしまいたい。

 世界から音が消えてしまったような一瞬のあと、明人はゆっくりと身を引いた。

「駄目ですよ」

 押し殺したような、しかしきっぱりした声。

「……私たちは、そういう間柄ではないでしょう」

 なにかを堪えるような、抑えたような声色は変わらない。

 ほとんど苦しんでいるといってもいいくらいの、辛そうな気配があった。

 一抹の冷たさすら、感じるような。

「ん……うん……」

 熱が、遠のいていく。

 跳ね除けられた掛け布団は、元通りにふわりと二人の上に降りた。

 明人はまた、仰向けに天井の方を向いてしまった。

 切なくもどかしい、ほんの指先数寸の距離が果てしない。

 そうだ。まだ二人は、恋人同士ではない。

 しかし今夜この瞬間、詩乃はそんなことを忘れ果ててしまっていた。

 まだこの関係に名前がついていないことも、今ここは旅先の宿だということも、近い将来に控えている転勤のことも。

 今夜ただここに、熱があった。昂りがあった。抑えきれず溢れた恋慕があった。

 愛しいひと——明人だけが、今ここにいた。