患者さんのケアを終え、蕾がナースステーションでひとり記録をしていると、有澤先生が蕾の傍らに立った。
「桜井さん、」と、彼は優しく呼びかけた。
「髪型の話なんだけど、」
蕾は、ドキドキしながら彼の方を振り返った。
「え?なんでしょうか?」
「いや、その...」有澤先生は、少し照れたような、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
有澤先生は自分のこめかみを指差して、「今日は編み込み、両方してるんだね。」と言った。
「あ、はい...」蕾の顔が、再び熱くなった。
先生が以前ら蕾の髪型について話していたことを、彼は覚えていてくれていたのだ。
しかも、わざわざそれを言うために話しかけてくれたなんてなんだか照れ臭い。
「あの、それは...」蕾は、上手く言葉が出てこなかった。
本当は「そうですよ、先生」と、笑顔で返したいのに、どうしてか言葉が詰まってしまう。
「あの、普段から、そう、しています...」
有澤先生は、そんな蕾の反応を見て、くすりと笑った。
その笑顔は、先ほどまで影を落としていた彼の表情とはまるで違い、阳光のように明るかった。
「そっか。今日は雰囲気違うなって思って。」
その瞬間、蕾は、有澤先生を自分の世界にしっかりと捉えたと実感した。
それは、まるでスローモーションのように、鮮明に、そしてゆっくりと、彼女の意識の中に刻まれた。
彼が、自分という存在を、単なる同僚としてではなく一人の女性として見ているのだ気が付いた。
桜の花びらが、風に舞い、二人の間を静かに流れていく。
その一枚一枚が、二人の間に芽生え始めた確かな絆の証のように思えた。
有澤先生の指輪はまだそこにはまっている。けれど蕾の心は、もう彼から離れることはできなかった。
二人の関係は、この穏やかな午後に、静かに、しかし確実に、新たな一歩を踏み出しだしていた。



