「あの...、桜、お好きなんですか?」
蕾は、意を決して声をかけた。この感情を、どうすればいいのか。
ただ、この沈黙を破りたい、その一心だった。
有澤先生は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかな表情に戻った。
「ええ、綺麗ですね。特に、この木は...」
彼の言葉はそこで途切れた。
蕾は、その続きを聞きたかったが、それ以上は何も言えなかった。
有澤先生が、亡き妻を偲んでこの桜の木の下にいることを、なぜか蕾は悟っていたのだ。
院内では有名な話しであった。
二人の間には、見えないけれど、確かに繋がる孤独と喪失感が漂っていた。
まるで、長い間、互いの存在を知りながらも、言葉にできなかったかのように。
蕾の心臓が、静かに、しかし確かに、高鳴り始めた。
この、桜の下での静かな出会いが、やがて二人の運命を大きく変えていくことになるなど、まだ知る由もなかった。
「私も、この桜が好きなんです。...毎年、思い出す人がいて」
蕾は、千尋のことを思い出し、少しだけ微笑んで言った。
有澤先生は、その言葉に静かに頷いた。
言葉は少ないけれど、二人の心は、この満開の桜の下で、ゆっくりと通じ合っていた。
病院の日常とは切り離された、静かで、少しだけ切ない、桜色の時間が流れていく。
蕾は、有澤先生の横顔を見つめながら、この静かな時間が、いつまでも続けばいいのに、と願った。



