「では、予定通りに?」
 くぐもった声。

 宮殿の外、庭の片隅で真夜中に二つの影が伸びる。一人は外交官ハスラオ・シフィ。もう一人は……

「公務で向かった先でたまたま事故に遭う。よくあることだろう?」
「せっかく幸せな結婚生活を楽しんでいるというのに、残念ですね」
 半笑いで、そう返すハスラオ。

結婚したからこそ(・・・・・・・・)、この公務に出向くのだ。本当に、よくやったぞハスラオ」
 危うく花嫁がいなくなるところだったのだ。あのままニースから花嫁がやってこなかったら、計画が大きく変わってしまうところだった。相手あってこその計画。ここで実行しなければ、今度はいつ、チャンスが巡って来るかもわからないのだから。

「では、予定通りに進めさせていただきましょう。して、そちらの方は?」
 ハスラオが訊ねると、男がフン、と鼻を鳴らす。
「問題ない。こちらが言うことをただ黙って聞いているだけの木偶の坊だ。今は多少ビクついているが、その時が来れば何とでもなるだろうて」
「なるほど。それなら安心ですね。あとはキンダ様の裁量で何とでも」

 男の名はキンダ・リー・フェス。アトリス国の副宰相である。

「これでやっと我がフェス家一族がアトリスの実権を握れるというもの。憎きラルフ家を一掃してな」

 アトリス国に長く仕えるラルフ家。現、大宰相はエイシル・ミオ・ラルフ。イスタの父である。長きに渡り、王家との関係を深く持つ政治家一族であり、息子であるイスタもまた、皇太子であるリダファとの関係を深めている。このままいけば次期大宰相もまたラルフ家から排出されることになるだろう。キンダにはそれが許せなかった。

「船の手筈は?」
「問題ありません。付き添いの従者もすべて、こちらで用意してございます」
「うむ。では、頼んだぞ」
「畏まりました」
 暗闇に集いし二つの影は、静かに消えて行った。

*****

「マチは来ないのか?」
 リダファが朝の支度をしながら女中長であるマチに訊ねる。
「私は船になど乗れませんよ。そりゃ、ララナ様のことは心配ですけれど」
 リダファの乳母でもあるマチは、ララナをいたく可愛がっていた。娘のように思っているのかもしれない。

「まぁ、大陸を渡るとはいえ、一日だけだ。何も心配はないだろう」
 夫婦での公務はこれが初めてだった。船で隣国へ渡り、公式な場で挨拶をする。ただそれだけだ。
「ですが、まだお輿入れからあまり日の経たないララナ様にとっては荷が重いのでは?」
 心配の尽きないマチがぎゅっとスカートを握り締める。

「俺が一緒なんだから大丈夫だろ」
 リダファが何気なく放った一言に、とんでもなく驚いた顔をするマチ。

「あら。あらららら、あらぁ~!」
「なっ、なんだよっ」
 あからさまな言い方に、リダファが膨れる。
「まぁ~! 坊ちゃんがそのような心強い発言をっ? あらぁ、人間、変われば変わるものですねぇ」
 ニコニコ、というよりはニヤニヤに近い顔でリダファを見上げる。

「なんだよっ、まるで俺がポンコツ(・・・・)みたいな言い方っ」
「あら! 言わせていただきますけどね、坊ちゃんは間違いなくポンコツでした(・・・・・・・)よ? つい最近まで」
「なっ!」
 あまりにハッキリと言われ、返す言葉も出てこない。
「ララナ様がおいでになってから、大分マシになりましたのね?」
「なんだよそれっ」

「マチは知っております。坊ちゃんは本来、好奇心旺盛で前向きで、自由なお方です。カナファ様がお亡くなりになって、坊ちゃんの肩に責任というものが重くのしかかってしまったことは、お察しいたします。ですけどね、それでいじけて小さくなっているだなんて、マチはずっとモヤモヤしておりましたよ!」
 言いたい放題である。
「ララナ様がいらしてからの坊ちゃんは、少し昔の坊ちゃんに戻ったような気がしております。それはとてもよいことです」
 胸に手を当て、マチが微笑む。
「ララナ様も日に日にお綺麗になられて。愛の力というのは素晴らしいですねぇ?」
 またニヤニヤ顔に戻る。
「ぐっ、」
 何か言い返そうと思ったが、どうせ言い返されてしまう。リダファは言葉を飲み込んだ。

「さ、お支度が整ったのでしたら朝食を。ララナ様が待っていらっしゃいますよ?」
「ああ」

 マチに続いて食堂へと向かう。扉の向こうでは、先に支度を終えたララナが待っていた。リダファの顔を見ると、パッと笑顔になり、そしてすぐに顔を背けた。背けたその頬が真っ赤に染まっている。昨夜のことを思い出してしまったのだろう。そんなララナを見たリダファもまた、顔を赤く染めてしまう。

「さ、お席にどうぞ」
 マチに背中を叩かれ、大きく息を吐くと平常心を装い席に着く。ララナもテーブルにつき、朝食を食べる。

「リダファ様、本日は午後から少し時間をいただきたいのですが?」
 マチがスープを差し出しながら言う。彼女は人前では『坊ちゃん』ではなく、きちんとリダファを名前で呼ぶのだ。
「時間? なんの?」
「御公務の際にララナ様がお召しになる衣装の件です。意見をお聞きしたいのです」
「着るものなど、アトリス特有のドレスならなんでもいいのだろう? 俺に相談なんかしなくても、」

「リダファ様?」
 一オクターブ低い声でマチが名を呼んだ。これはマチが怒っている時の声。聞き慣れているリダファは反射的に背筋がピッと伸びた。

「わかった。時間を作ろう」
「よろしくお願いいたします」
 チラ、とララナを見ると、今のマチとのやりとりが面白かったのか、くすくす笑っていた。つられてリダファも頬が緩む。

「ララナなら何を着ても似合うんだろうけどな」
 脳内の言葉が駄々洩れる。

 ララナはなにを言われたのかわからなかったようで、キョトン、とした顔をしていたが、その場にいた女中たちは全員、心の中で悶絶したのである。