家を出てみれば不安がよぎる。恐ろしいと言えば恐ろしい。でもマリーができるのは菓子作りで相手を油断させ、母親を助けること。いわば菓子は甘い罠である武器なのだ。
マリーは公爵家に着くと門番に、ここで働くことになったと伝えた。すると聞いているので、このまま裏口に回り、そこから入っていいと言う。いわれた通りに裏の扉に向かった。歩いていると菓子の道具が、子供にとって重いものだと、背負ってみて改めて実感した。それは細身で小さい体だから当たり前だ。
公爵邸の裏口から入り、執事に部屋を案内してもらおうと思っていた。門番に教えてもらった裏口の扉はしっかりしていて重たい。勝手に入っていいと言われたので、一応ノックしてから開けた。顔だけ出して辺りを見たが誰もいない。ゆっくりと入って廊下を歩いて行く。
「すいません。誰かいませんか?マリ、あっ、えーっと。マリオ、そうマリオット・フロッサムです。明日からここで働かせて頂きます」
「来たか、少年」
後ろから声がしたので驚いて振り向くと、ダニエルが目の前に立っていた。まるで絵から出てきた美男子だ。この前は、怖さが先に立って、この美しさを忘れていた。こんなに近いと鼓動が早まる。気付かれたくないと思い後退りをした。
「どうした。顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
サラサラの髪が揺れてマリーに近寄ってくる。ダニエルの手足が長く細身の体は、思う以上に長身に見えて、しゃがみ込んで座ってしまった。するとリックが外れてダニエルが片手で持っていた。重い荷物に納得したように言った。
「何だ。このせいか。子供にこんな思い物をもたせるなんて、可哀想に。力み過ぎて顔が真っ赤だ」
マリーは見上げて頭を横に振って答えた。こんなに体が熱く鼓動が激しいのは初めてで、自分がどうなっているのか、不思議な気持ちだった。
「姉はどこだ」
「お、お姉ちゃんは後から来る」
動揺しているので、どもってしまった。ダニエルは少しがっかりした様子だった。マリーに会いたかったというのが本音で、待ち伏せをしていたのだ。
「そうか、会えなくて残念だな。部屋を案内してやる」
「あ、ありがとうございます」
ダニエルは整い過ぎた容姿のせいで冷たく感じるが、笑うと優しさが滲み出てくるようで心を許してしまう。そのギャップは女性にとって、たまらなく心を持っていかれる。どんな女性も惹かれてしまうのは目に見えている。だから街で公爵家の場所を聞いた時に、ダニエルに会うことが羨ましいと口々に言うのだ。街の女性たちの憧れの的になっているのは、こういうところなのだろう。
それに、さり気なく荷物を持つのは、心から優しいことが感じられる。とマリーは後ろ姿を見ながら物思いにふけっていた。するとダニエルの背中に見惚れたせいで、足元が縺れてバタンと大きな音をたて転倒した。
「痛い!」
膝を抱えてマリーは痛がった。
振り向いたダニエルは素早く駆け寄った。マリーを立たせて、優しく言った。
「大丈夫か?歩調が速すぎたか?」
「大丈夫です」
「泣かないのは偉いぞ」
「泣くわけない!」
怒った口調で言ってしまい口を押さえた。それがあまりに可愛らしいので、頭を撫ぜてダニエルは笑いかけた。
「そうだな、男の子だ。でも泣いても大丈夫だ。内緒にしておくぞ」
マリーは子供の姿だったことを忘れていた。(そうか、こんな時は泣くのか)そう思っていたら体が浮いて、ダニエルが片手で抱きかかえた。慌てたが、ここは子供らしくと思いダニエルの首に手を回して抱きしめた。
ダニエルは子供に体を預けられたことが初めてで、愛おしく思い暖かい気持ちになった。
(さすがマリーの弟だ。愛おしく守りたくなる)と思っていた。
マリーは片手に抱きかかえられ、もう片方にリックを持ったダニエルに父親の面影を重ねた。幼い頃によく同じように抱きかかえられたことを思い出した。逞しい腕に抱きかかえられて安心していた。
そんな父親が亡くなり、母親は行方不明になって、心細い気持を押さえていた。だが縋りつきたいという思いが頭の中によぎる。肩を抱きしめた時にダニエルの細身に見えていた体が、思いのほか筋肉質でより頼もしかったからだ。
もしも事情を話せば助けてくれるかもしれないと、ささやかな希望が垣間見えた気がした。でもその思いは束の間で消えた。マリーの抱きかかえられている目線に見えた物が、そんな思いを吹き飛ばした。それは廊下の棚にあるロウソクの燭台に、あの紋章が刻まれている。母親を攫った馬車の紋章だった。
今までの頼りたいという思いが一気に覚めた。ダニエルは母親を誘拐した犯人だ。優しさは大人のマリーを、引き寄せるための芝居かもしれない。でも何故、女性を誘拐するのか、マリーには、さっぱり分からなかった。何が目的なのか、それを知りたい知ることで犯人の証拠を突き止め、母親を助けることができるはずだと考えていた。
(その首根っこを押さえてやる)と心の中で叫んだ。それが無意識にダニエルの首を、強く絞めていた。
「苦しい。手を緩めろ」
「あっ」
マリーは腕を緩めた。ダニエルはマリーが怖がって、首を強く抱きしめたのだと思った。腕を離したので、マリーの目を見て言った。
「落とさないから大丈夫だ。もうすぐ部屋に着くぞ」
暫く歩くと地下に繋がる階段があり、降りた正面に部屋があった。地下に部屋があるのは、初めて会った時の嘘の病気のことを覚えてくれていた。それを言った本人が、この時は忘れているようだ。扉の前に立つとマリーを降ろしてダニエルは言った。
「さあ、着いたぞ」
「ありがとう」
扉を開けてみると可愛いピンク色の壁紙にベッドのシーツはベビーピンクで可愛い。洋服ダンスは白色に金色の金具が付いていた。ドレッサーも白色でタンスとお揃いだ。女の子なら誰でも喜ぶような可愛い部屋だった。
「可愛い」
「姉は喜ぶか?私が用意させた。この部屋は店のイメージだ。まあ少年には、この良さは分かるまい」
「お姉ちゃん、本当に喜ぶよ」
「そうか、良かった。この部屋の隣が厨房だ。今までパティシエを雇っていなかったから専用の厨房を急いで作らせた。不備があれば私に言うんだぞ」
「はい。ありがとうございます」
マリーは頭を深く下げた。この人が犯人だろうか?という疑問も湧いてきていた。
でも部屋の装飾からみるとマリーのことを思って用意してくれた。案外、善良な人かもしれないと思えた。いや、これは見せかけだけで、実は恐ろしいぐらい悪辣な人なのかも知れないと、疑いの目を更に向けた。
「何だ。急に、その目は、性悪な顔をしているぞ」
「ほっといて、こんな顔です」マリーは膨れっ面をして怒っていた。
「まあ、反抗したい年頃だな。じゃな、少年、また来る」
「来なくていい!」
ダニエルは微笑んで出て行った。身のこなしは優雅で品がよく、扉を閉める時でさえ音はさせない。マリーは出て行った扉を見詰めて、ダニエルの残像を感じていた。
イケメンというのはどんな仕草をしても見惚れてしまう。ましてや微笑みを残して行くとは、自分でなければ誤解するだろうとマリーは思った。ダニエル自身は好きでもない女子に勘違いさせて、好きにさせてしまうとは、罪作りなことだ。
そう思いながらもイケメンの効果は最大で、マリーは見惚れて扉から目が離せないでいたのだ。知らず知らずに目の保養をしてしまっていた。頭の中でドーパミン物質が過剰に放出されて、感情が幸せ過ぎたのか放心状態でいた。
「だめだめ、見惚れている場合じゃない。とりあえず、服をタンスになおそう」
マリーは両頬をパンパン叩いて、目覚めたように動き出した。明日から母親を見つけるため、この屋敷の隅々まで探索するつもりだ。それが目的なのだから、必ず探して見せると力が入っていた。
そのためには勘づかれては、いけない。ダニエルには1番好きな菓子を与えて、油断させておいた方がいいと思った。だが、どんな菓子を作ればいいか、ダニエルのことを、1つも知ないのだ。敵のことを知らなければ、攻撃も防御もできない。
ダニエルのことも探らなければいけない。マリーの頭の中は、色々な思いが巡っていた。まず今日の夜に菓子の下拵えをするつもりだった。子供の姿では菓子作りの道具が重たかったので、夜、大人になってからする。その方が要領よくできると思った。。
あれこれしているうちに、昼が過ぎていた。ノックの音がするので、扉を開けるとメイドの姿の若い女性が立っていた。手に持ったトレイに昼食らしき物がのっていた。
「ダニエル様が、昼食を持って行くように言われたの。はい」
マリーは受け取った。すると無理やり、薄く開いた隙間から部屋に入って来た。その部屋の可愛さを見てびっくりしていた。
「ねえねえ、何で貴方たちだけ特別扱いなの?」
「え、特別?」
「そうよ。ダニエル様、直々に貴方たちには、部屋に食事を持って行くようにと言われた」
「えー、そうなの。これからは私、いや僕が取りに行くよ」
メイドはマリーの姿を上から下まで、じっくりと見た。メイドは赤毛で一つに後ろで髪を束ねていた。顔は血色がよく、そばかすがある。そして良く笑う。弾けたように活発で好奇心旺盛な明るいタイプだ。ぐいぐいと心に入ってくる。今日、初めて会ったばかりに思えないのだ。
「私はアマンダ、よろしく。あんた可愛いわね。大きくなったら、美男子になるわね」
「僕はマリ、マリオットよろしく」
「マリオね。私はアマンダよ。アマって呼んでいいわよ。よろしくね。あれ、もう一人いるって聞いているんだけど」
「お姉ちゃんは後から来る」
「じゃ一人分で良かったかしら」
「うん、普段から1人分でいいよ。お姉ちゃんも僕も少食だからね」
「育ち盛りなのに、2人で1人分?」
「本当にそれでいい。残すのがもったいないから。それにお菓子作りの味見もするし、あまり食べられないよ」
「いいな。お菓子も食べられるのか。ねえ、マリオ、私も味見したい。必ず私が食事持ってくるから、味見させて」
「うん、いいよ」
「やった。お菓子なんて高くて贅沢品だし、クリスマス時期しか食べたこと無い」
「じゃあ、毎日、昼時に1回、アマのために渡すよ」
「ありがとね。じゃ、また」
「うん」
マリーは手を振った。アマンダは嬉しそうに出て行った。マリーはバレないかとドキドキしていた。アマンダは良い人みたいだから、嘘をつくのは嫌だった。でもダニエルが犯人だと思っているので、悪事を暴こうとしているのだから、知れてはいけないことは隠す。嘘もつかないといけないのだ。自分を守るためにも。
先程まで忘れていたが、ダニエルは気が利いていると思った。それはマリーの体が弱いと言っているのを考えて、食事を部屋でさせてくれている。厨房も専用なのは、疲れたら休めるようにしているのに違いない。マリーはダニエルが犯人でないことを、一瞬、願った。何故、願ったかは自分でも分からない。心の奥の気持ちは複雑なようだ。

