記憶を越えて恋をする


 『がんばれ』
 その言葉が耳をかすめたあと、先輩の手が私の頭に触れた。
 面越しに行われたそれはくぐもっていて、とてつもなく勿体ないことをした気分になった。
 先輩は人たらしだから、誰にでもこういうことをする。そんなことはわかってる。
 でも、背後で聞こえた少し荒くなった息に、なぜか涙が出そうになった。動揺したんだ。
 こんなに近くで先輩を感じたのは、初めてだったから。
 

 ◇

 
 放課後の生徒会室。
 一番に帰りの会を済ませた私は、他のメンバーが来るのを座って待っていた。
 他の委員会に何故か物置にされがちな生徒会室はあちこち段ボールだらけ。エアコンもついていなければ、唯一ある扇風機はところどころ欠けていて心許ない。昨今の夏はかなり暑いので早急になんとかしてほしいものの、生憎生徒会だからといって、学校設備に物を言える立場ではないのが苦しいところだ。
 最近はあまり見かけない平成アイドルの名前が彫られた机に突っ伏していると、生徒会室に続く階段を登る、軽快な音が聞こえてくる。
「あれ、笹田さん早いね」
 まるで逆再生をしたような動きで体を起こした私は、すべての感情を押し殺すことで動揺を隠した。
「……大森先輩、こんにちは」
「はいこんにちは」
 元気よく生徒会室の扉を開けたのは、生徒会長の大森伊里先輩。
 背が高くスラッとしていて、センターで分けられた前髪からのぞく瞳は長いまつ毛に縁どられている。
 絵にかいたような王子様キャラって本当にいるんだな、と感じたのは記憶に新しい。

 生徒会長かつ爽やかで格好いい、しかし先輩の魅力を引き出しているのはそこだけではない。
 全教科八十点越えが当たり前である先輩だけど、1つ欠点がある。
 それは、”提出物の出し忘れが多い”ということ。
 数学の先生によって結成された、宿題忘れ常習犯が集められている『居残り部』。
 先輩はそこの部長に任命されるほどに、宿題の提出率が悪いらしいのだ。
 80パーセントの真面目と、20パーセントの不真面目が絶妙な感覚で先輩の人望を保っている。
 そんなギャップを持ち合わせている大森先輩に、片思いしている生徒は多いのだろう。
 ――私だって、その中の一人だ。

「あ、そうだ笹田さん。明日は吉井先生が出張だから、自分たちで稽古しててだって」
「え、あ、わかりました」
 実は、私と大森先輩は同じ剣道部に所属している。
 私は小学校一年生のときから剣道をやっていたので、決してよこしまな気持ちで剣道部に入ったわけではない。
 入ったら大森先輩がいた、それだけの話だ。
 「練習試合も近いし、頑張り時だね」
 そう笑いかけてくれる先輩に、心臓が雑巾のようにきゅっと絞られた感覚がした。

 
 
 それからしばらくすると、他の生徒会メンバーたちが続々と集まり出した。
 最近の仕事は、主に生徒総会に向けての準備。
 生徒総会とは、学校の校則について議論したり、委員会の活動報告をするイベントである。
 生徒会役員が主体となって準備をし、当日は司会進行をしたりする。
 ちなみに今日やることは、全生徒に配るための議案書を作ること。私たちは一年間を通して使われる学校スローガンを考えたり、各委員長や部長から集めた、予定表メモを清書する役割を担っているのだ。
「今日は大変だよー」
 と言いながら、副会長が印刷室と書かれた鍵を揺らした。

 印刷室にて。
「全生徒七百人分、それを約二十ページ刷るんだよ」
「つーことは……一万枚以上かよ!?」
 一年生の書記の男の子が、絶望したように嘆く。
 去年経験済みの先輩たちは、慣れたように作業を始めた。

 ガション、ガション、ガション――。
 思ったよりも地味な作業だ。先ほどから私たちは、印刷機から出てくるプリントをひたすらにまとめている。
 みんな眠くなってきたのかだんだんと無言になってきた。
「……あ」
 印刷機の音がだんだんとゆっくりになってきたことで、私はコピー用紙が残り少なくなっていることに気が付いた。
「私、替えの紙もらってきます」
 私が行くから大丈夫、が口癖な副会長を今日こそかわせるように、扉からすでに出た状態で声をかける。
 後輩だって、先輩や先生に褒めてもらいたいのだ。
「あ、俺も行くよ」
 室内シューズのつま先を廊下に向けると、思いもよらぬ言葉が頭に突き刺さり、私は息をのんだ。
「えっ……?」
「行ってらっしゃーい」
「よろしくね~」
 手を振るみんなの声が遠く聞こえる。
 大森先輩が、持っていた紙の束を置いてこちらへ向かってくる。
「じゃ、行こっか」
 肩を押されるがまま、私は印刷室を後にした。
 
 

 心と体が分離して、別々の人間になってしまったかのようだ。
 頭はフリーズしているのに、体は先輩の横を歩いている。
 チラリと横をみやると、先輩の綺麗な髪が、窓の外の夕焼けに溶けて見えた。
(見上げないと顔が見えないな)
 先輩と自分の身長差を意識して、顔に熱がこもるのを感じる。
 同級生たちは大きめのジャージの裾をダボつかせて歩いているのに、先輩は違う。
 スラっとした足に沿って、下まできっちりとズボンは伸ばされていた。
「この間のさ、部活中転んだときの怪我、もう痛くない?」
 首を少し傾けて、先輩は私を覗き込む。
 突然目の前に現れたサラサラ髪のカーテンに、私は大げさに肩をはねさせた。
「大丈夫、です! もうすっかり治りました」
 高鳴って止まらない心臓に知らないふりをして、目線を窓の外にやった。
 それは良かった、と先輩が微笑んだ気配がする。
 夕日が出ていて良かった。だって、私の顔は今タコのように真っ赤になっているだろうから。


 ◇


 私が先輩への想いを自覚したのは、二か月前、部活の練習試合のとき。
 バスをいくつか乗り継いで、顧問の先生同士が知り合いだという中学校へ行った。
 私は初めての練習試合に緊張してしまって、友達と話している間も冷や汗が止まらなかったのを覚えている。

 軽い基本練習を終え、今日の目的であった練習試合が始まった。
 男子と女子が代わる代わるに行うことになり、運よく私は大森先輩の次が出番となった。
「面あり!」
 審判である二人の先生が手に持っていた旗をあげる。
 旗の色は、先輩の背中に結ばれているタスキの色と同じだった。
「伊里やるぅ!」
「ストレート勝ちいけるぞ!」
 興奮したように声を上げる部員たちの後ろを通って、防具を付けた私は待機場所につく。

 相手を見据える先輩の顔が、一番よく見える位置。

 汗を流しながら、真剣でまっすぐな瞳。あんな瞳に見つめられて、私だったら一瞬で白旗を上げてしまう。と、くだらないことを考えてしまうのは、いつもと違う環境に少し舞い上がっているからだ。
 先輩の鋭いかけ声と共に、竹を割ったような音が鳴る。

「胴あり!」
 
 味方の歓声が背後から聞こえる。……先輩の二本勝ちだ。
 丁寧な姿勢で礼をし、先輩がこちらへと戻ってきた。
 
 
「次、笹田うたさん。枠線の中に入ってください」
 そう先生の声が聞こえたとき、私の心臓は嫌な音を立てた。
 相手チームの席から立ちあがったのは、私よりずっと背の高い子。
 ピンと伸ばされた背筋が、彼女の自信をありありと感じさせる。
 (今、みんなが私を見てるんだ)
 顔は沸騰しそうに熱いのに、冷や汗が止まらなくて吐き気がしてきた。
 
「笹田さん」
 するとくぐもった声と共に、頭にコンと何かが乗せられた。
 振り向かなくていいと言わんばかりに、面に置いた手にぐっと力を入れられる。
「お……おーもりせんぱ……」
「大丈夫、大丈夫、――――――”がんばれ”」
 少し息を上がらせた声で、先輩は小さく強く呟いた。
 
 それからのことは、よく覚えていない。
 試合中、もう汗なのか涙なのか鼻水なのか、よくわからないものでぐちゃぐちゃになってしまったのは覚えているけれど。
 恥ずかしいので、これこそ忘れてしまいたかった。
 結局背の高さで押され、必死に面を防いでいるうちに試合が終わってしまった。
 結果は引き分けだった。

 ただ一つ記憶に焼き付いているのは、面を取ってふと右を向いた時、少し遠くに座る先輩が私を向いてグッドポーズをしたこと。
 そして、
 ”なんだかすごく、大森先輩が好きだ”
 先輩への恋心を自覚したということだった。


 ◇  


 生徒会の仕事が終った時、外はもう暗くなっていた。
 校門のところで別れ、私は帰る方向が同じである大森先輩と同級生の会計、根本さんと三人で帰ることになった。
「こんな暗い時間に帰るなんて、ザ・青春って感じで良いですよねー」
 根本さんが、頭のてっぺんのお団子を揺らしながら歩いている。
「わかる。これを味わえるなら、遅くまで居残ったかいがあったって思えるよ」
 先輩と根本さんが話しているのを見ながら、私はじっと黙り込んでいた。
(いいなぁ根本さん。あんなぐんぐん話しかけられるなんて)
 私は人前で話すことは好きだけど、先輩と話すのはまた別の話だ。
 綺麗な顔を向けられると、喉のふたが閉まってしまったかのように声が出なくなってしまう。
 お風呂の中で、華やかに先輩と話している自分を何度想像したかわからない。
 想像はするくせに、いざ対面すると頭が真っ白になってしまう私は弱い人間だ。

「笹田ちゃん、私こっちだから」
 ぼーっと歩いていると、突然耳元で根本さんがそう呟いてきた。
 何故か、にやにやとした顔で私を見ている。
「そ、そうなんだ。また明日ね……?」
 困惑しながら手を振ると、根本さんは言った。
「大森先輩と二人っきりを楽しんでくださりませ」
「……な!!!!」
 根本さんを引き留めようと手を伸ばした時には、もう建物の角を曲がって行ってしまっていた。
「笹田さん? 早く帰ろう」
 ギギギとブリキ人形のように顔を動かす。
 真っ赤になった顔を見られたくなくて、わざと街灯から離れたところを歩こうとした。

「笹田さん、危ないよ」
 すると先輩が私のブレザーの端を軽く掴んだことで、つんのめった私は先輩の胸に飛び込んでしまった。
「す! すみません!!」
 よりいっそう真っ赤になった顔に、先輩はもう気づいているだろう。
 なりふり構わずもがきながら、私は先輩から離れようとした。



「あ……あれ?」
 私の視界は今、真っ黒に染まっている。
 これはなに……?
 右手を動かして、目の前の黒に触れてみた。少しザラザラしている。
 これは…………学ランだ。

 わたしはいま、せんぱいにだきしめられている。
 
「ごめん」
 先輩は弱弱しい声で呟いた。
 耳に温かい息があたって、私の呼吸も浅くなってくる。
「ごめんね」
 そう呟きながら、先輩は私の体を離した。
 顔が見たくて、私はまっすぐ先輩を見つめようと上を向く。
「……車道側は危ないから」
 そう言った先輩の声は、いつも通り柔らかくて優しい。
 でも。
(……おかしいな)
 先輩の顔がよく見えない。今は夜だけど、街灯の白い光に照らされているから見えるはずなのに。
「家まで送るよ」
 視界が歪んでしまって、よく見えない。
「行こう」
 なぜか私の瞳からは、大粒の涙が溢れていた。


 ◇


 その日の夜はなんだか頭がふわふわして、一時間もお風呂に入ってお母さんに怒られてしまった。
 ベッドに座った瞬間眠気に襲われ、私は泥のように眠った。
 宿題を忘れたのなんて、生まれて初めてだった。


 ◇


 夢を見ていた。
 夢の中に、いつも現れる子がいる。
 紺色の道着がよく似合っている子。
 面を打つときはいつもかがんでくれて、『ちっちゃいね』とからかってくる。
 私はいつも、風船みたいに頬を膨らませて怒っていた。
 でも頭を撫でてくれる手は私より少し大きくて、暖かくて、泣きそうなほどに優しかった。
 私はそんなあの子が大好きだった。

 
「笹田さん。起きたのね」
 目を覚ますと、視界は真っ白なカーテンで埋め尽くされていた。
(そうだ私、体育の授業中にボールが頭に当たって倒れたんだ)
「すみません…………今何時間目ですか?」
「四時間目がもうすぐ終わるところよ」
 一時間以上も眠っていたのか。昨日はいつも以上に熟睡できたと思ったのに、まだ寝足りなかったのだろうか。
 ベッドから起き上がって伸びをし、体の凝りを取る。
 秋とはいえジャージのまま布団を被るのは暑かったのか、じんわり汗ばんでいた。
「給食が始まった時に戻ればいいわ。まだ座ってなさい」
 保健の先生はパソコンに向き合っていた目をこちらに向けて言った。
 私は寝起きの声で返事をし、もう一度ベッドに戻った。

 昨日の先輩の声が、頭から離れずにずっと響いている。
『ごめん』
 あれは何に対しての言葉だったのか。心当たりはない。
 第一昨日が特別だっただけで、私と大森先輩はそれほど話す仲ではないのだ。
 誰かと私を重ねたのか、何かを思い出してふと出てしまった言葉だったのか。
 私はモヤモヤした状態で今日一日を過ごしていた。
 だからボールが頭に直撃したわけで。

 キーンコーンカーンコーン

「あ、四時間目が終わったわ。教室戻る? それともここから食堂に給食取りに行く? だとしたら先生も一緒に行くけど」
 お言葉に甘えて、先生と一緒に食堂に行くことにした。

 「今日は災難だったわねー。当たり所が悪くなくてほんと良かったわ」
 並んで廊下を歩いていると、先生が、かけていたメガネを触りながら言った。
 保健の先生は生徒たちからとても好かれている。
 私はそれほど話したことがなかったから、今まではなんとなく良い先生らしい、という認識だった。
 でも話してみてわかった。気さくな笑みと、大人ながらも目線を合わせて話をしてくれる優しさが暖かい。人気だと教えてくれた友達の話に、今なら全力で頷きたいと思った。
 
 だから少し、気が緩んで聞いてしまった。
「先生って、学生時代好きな人とかいましたか?」
 横を見ると、先生は目を大きく見開いている。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。先生は『うーん』と考え込んだ後、恥ずかしそうに言った。
「そりゃあいたわよ。とびっきり好きな男の子が」
 それを聞き恋愛センサーを発動させた私は、申し訳ないという気持ちが吹き飛んでしまった。
「ど……どんな気持ちでした? その、好きになったとわかったときとか」
 先生は私の顔をじっと見つめたと思うと、何かを察したという風にニヤリと笑う。
「そうねえ、まず毎日教室に入る瞬間が楽しかったわ。寝癖が凄い子だったの。だからみんなによくからかわれてたんだけど、その子こう言ったのよ。『寝癖がつくのは自然の摂理だ。これが俺の素なのだ』って! 笑っちゃうでしょ』
 そう言って微笑む先生はとても可愛くて、幸せそうな表情をしていた。
 だから私は思った。
(先生の恋は、まだ終わってないんだ)
 薬指に光っているシルバーの指輪は、誰に貰ったものなのだろう。
 私はなぜか嬉しくなって、心の中のモヤモヤの間から晴れ間が見えてきたような気がした。


 ◇


 あの後私は教室に戻って、みんなと給食を食べた。
 食器を片付けて廊下を歩いていると、数人のクラスメイトの女の子が抱き着いてきた。
「うたちゃああん! さっき本当にごめんね……。私投げるのへたくそで……」
 先ほどの体育の時、私にボールを投げてくれた子が泣きそうな顔で言う。
「ううん! 全然ピンピンしてるから大丈夫だよ!」
「もう痛くない? 大丈夫?」
 と言いながら、他の子が私の後頭部をさすってくれる。
 クラスメイトたちの優しさに、嬉しくて思わず笑みがこぼれた。

「笹田さん、怪我したの?」
 心臓がどくりと音を立てた。
 昨日の夜から今まで、ずっと私の心を占めていた人の声が後ろから聞こえる。
「えっ大森先輩!?」
 クラスメイト達が小さく色めき立つ。
 やはり、大森先輩は色々な人から好意を寄せられているんだと改めて思い知らされる。
 職員室から出てきたところだったらしい先輩は、大股で私に近づくと優しく頭に触れてきた。
「せっ、先輩」
「うったの?」
 先輩らしからぬ、有無を言わせぬ口調で私の瞳をまっすぐに見つめてくる。
 練習試合のとき、その真剣な瞳で見つめられたいと願いはしたが、まさかこんなシチュエーションで叶うとは夢にも思わなかった。 
 低い声はとうてい王子様とは言えず、後頭部をわしっと掴まれているこの状況はロマンチックさのかけらもない。
「い、いや、その、ボーっとしててボール取り損ねちゃって……」
「それで? 頭に当たったの?」
「は……はひ……」
 先輩は眉を寄せたあと、はっと目を見開いた。
「あ……、ご、ごめん」

(……まただ)
 昨日からなぜか、先輩には謝られてばかりだ。
 恋人になりたいなんて高望みはしていないけど、いつか笑い合えるような関係になりたいと思っていたのに。
 複雑な表情を向けられてばかりの現状に、少し悲しくなる。
「…………大丈夫ですよ。また、放課後」
 自分でも驚くくらい、平坦な声が出た。
 先輩が何かを言いたげに口を開いて、閉じるのを視界の隅に収め、私は教室へと足を進めた。


「うたちゃんって、大森先輩と付き合ってるの?」
 席に着くと、後ろからついてきていたクラスメイト達が詰め寄ってくる。
 水筒の水を吹き出しそうになりながら、必死に飲み込んで口を拭いた。
「え!? 付き合ってないよ!?」
「ええ~?」
 なにが『ええ~?』なのだろうか。あんな何もかもが格好いい先輩と、これといって取り柄のない私が付き合えるわけがない。
 と思いながらも、昨日先輩に抱きしめられた記憶が蘇り、もしかしたらという期待が頭をよぎった。
 しかし『ごめん』という言葉があまりにも謎すぎて、あれが私に向けられた思いなのかどうか疑わしい。
 私は鈍感なわけではない。だが、先輩は私を通して誰かを見ているような気がしてならないのだ。
「あんなに過保護にされてるのに? ほんとーに付き合ってないの?」
 疑わしいという視線を四方八方から向けられ、気まずさから私は教科書で顔を隠した。
「ほんとーだよ! 大森先輩は誰にだって距離が近いの!」
 間違ってはいない。誰にだって優しいし、私に向けられる声色だって特別柔らかいわけでもない。
 ――そう、私にだけ優しいわけがないのだ。

(……あーもう、深く考えるのはやめ!)
 ボールが頭に激突するのは、もうこりごりだし。
 あの帰り道で起きた出来事は夢だったことにしよう。
「それより、四時間目の授業のノート写させて~」
「あ、そっか! 良いよ。わたしので良ければ」
 得意の必殺話そらしで、私はこの場を切り抜けることにした。


 ◇


 つくづく、弱い自分が嫌になる。
 さっき自分で言ったんじゃない。
 ”深く考えるのは終わりにする”って――――。


 放課後、私たち生徒会一年生は作った議案書を各教室に配りに行く、という役割を担っていた。
 二年生は、当日話すことの最終打ち合わせをするらしく『今日もお疲れ様』と言って私たちを見送ってくれた。
 クラス三十人分を教卓に乗せておけばいいので、今日の仕事は簡単だ。終わったら各自下校とのこと。
「じゃああたし、三年生の担当だから。じゃね!」
 根本さんと渡り廊下で別れ、私は二年生の廊下へと向かった。
(そういえば大森先輩、今日はまだ来てなかったけど、もしかして早退とかかな)
 階段を下りながら、ふと考える。
 会わなければ学校にいるかどうかもわからない。もし早退したとしても、私に知らされるわけがない。
 先輩と自分が結局は他人同士であることを改めて思い知らされ、胸がチクリと痛んだ。

「……が…………もう……」
「ん? 誰かまだ残ってる?」
 二年三組の教室の中で、誰かが話している声が聞こえてくる。
(二年三組……大森先輩のクラスだ)
 でも、話し声はぶっきらぼうで低い。大森先輩ではない。
(誰かいるなら後にしようかなー)
 身を縮ませて教室の前を通ろうとしたとき……その言葉は聞こえた。

「笹田さんのことを、もう忘れたいんだ」
 心臓が、しゅうっと萎んだような気がした。
 それは紛れもなく、大森先輩の声だった。

 低い声の人と先輩が、背面黒板の前で話している。
「忘れたいってお前……生徒会があんだし無理あるだろ。それに……」
「そういうことじゃない。俺の中にいるあの子のことを忘れるんだ。また他人同士に戻りたい」
(……どういうこと?)
 足も唇も手も、寒くなんてないはずなのにすべてが震えてしまう。
 私は自分が思うより、先輩に付きまとってしまっていたのだろうか。
 ――そんなの、一番タチの悪い人間じゃないか。
 これ以上聞きたくないと元来た道を引き返そうとしたとき、教室の中にいた大森先輩と目が合ってしまった。
「!!!!」
 しまった、という先輩の表情を見たとき、私の頭は絶望に染まった。
 
 
 走って生徒会室へと戻り、外の出口付近に置いていたバッグを雑に掴む。
 議案書が入ったファイルを詰め込み、急いで階段を下りた。
(ええっと、あー、議案書は部活が終わったら届ければいいかあ)
 感情がぐちゃぐちゃになったせいで、一周回ってモヤがかかってきた頭を必死に働かせる。

 おぼつかない手つきで格技場の重い扉を開け、顧問の先生に挨拶をしてから道着に着替え始める。
 すでに部活は始まっており、竹刀と防具がぶつかる音が何重にも響いている。
 いつも変わらぬ部活の音に、少し心が落ち着いた。


「生徒会の仕事終わったんだ」
 私も稽古に参加し始めてから三十分ほど経ち、休憩時間が挟まれた。
 手拭いで汗を拭きながら、女子の先輩が私の隣にどさりと座る。
「大森は今日来ないってさ」
 タイムリーで名前を出され、落ち着きを見せていた感情がまた胸を締め付け始める。
「今日は生徒会で忙しそうでしたからね」
 揺らいだ心を感づかれないように、私は無理やり声を明るくして言った。
「大変だねー。生徒総会の時期は。あいつ、最近疲れてるのか元気ないんだよ」
「先輩方は主役ですからね……」
 だんだんと下がってくる口角を、隠すように手拭いで顔を拭いた。

「稽古再開するぞー」
 顧問の先生の良く通る声が聞こえ、私たちは素早く面をつける。
 自由な相手と組んで実戦系形式で戦う、『地稽古』が始まった。
 私より強い先輩や同級生と戦うことで、うだうだと考えている余裕がなくなり、私はこの時間鉛のように重たかった気分を忘れることができていた。


 ◇ 


「お疲れっした!!!!」
 薄暗い中庭を歩いていると、野球部員の凛々しい声が聞こえてくる。
 校門には先生たちが立って見送りをしており、私も軽く一礼をしながら学校を出た。

 人通りが少なくなってきた住宅街。
「……あ」
 頬に冷たいものを感じて上を見上げると、雨が降り始めていた。
 (今日降るって言ってなかったのに)
 あるわけがない折り畳み傘を求めてセカンドバッグを探っている間に、雨はどんどん強くなってくる。
 数分しか経っていないというのに、髪はびちょびちょになっていた。
 
 土砂降りで視界が霞んで見える。
 走って帰ろうと一歩踏み出した時、突然目の前の景色がぐるりと反転した。
「あれっ?」
 雨で濡れた地面で、私は足を滑らせてしまったのだと脳が理解した。
 
 すると向こうから、車の白いライトが見えてくる。
 私を取り巻く時間が、とてもゆっくりになったような感覚がした。
 来たる衝撃が怖かったのか、ライトが眩しかったのかはわからないが、私はまぶたを下ろす。
 陶器に爪を立てたような鋭いブレーキ音と、地面に打ちつける雨の音が近くて、耳の中で鳴っているのかと錯覚した。
(あれ……この感覚、私知ってる)
 もうすぐ死ぬという状況だというのに、なぜか脳裏に懐かしい記憶が蘇ってきた。
 
「うた!」
 意識が霞み始めていても、大森先輩の声だとわかった。
 ぐいと強い力で体が引き戻され、私は先輩を下敷きに歩道へと転がった。
 

 先輩はぎゅうと私の体を抱きしめ、肩口に額を押し付け震えていた。
 二人ともとうにびしょ濡れで、ここに誰かが通りすがったらきっと怪訝な目で見られるに違いないと思った。
 先輩の肩の震えが大きくなってきた。泣いているのかもしれない。
(なぜ?)

 ……いや、それはもうわかってる。だって全て思い出したから。

「……いさとくん」

 私がそう呟くと、先輩はばっと顔を上げた。
 綺麗に整っていた顔は涙と雨でぐちゃぐちゃになっていて、いつもより幼く見える。
 私はおかしくなって、少し笑ってしまった。
「へんなかお」

「……思い、出したの?」
 震えた声でそう言う伊里くんに答えるように、私は勢いよく飛びついた。
「ぜーんぶ」
 伊里くんは私の背中に両腕をまわし、よりいっそう強く抱きしめた。
 いつもしっかりと背筋を伸ばし、頭の先から足の先まで完璧に整えられているような男の子が、まるで幼い子供のように泣いている。
 加減も知らずに押し付けてくる頭が濡れていて冷たい。私は伊里くんの背中をずっと撫で続けていた。


 ◇


 私と伊里くんは、小学校一年生のときからの仲だった。
 親同士が授業参観で意気投合したらしく、よく家にも遊びに行っていた。
 他の男の子たちより心も体も成長が早かった伊里くんは、私にとってお兄ちゃんみたいな存在だった。

 伊里くんが小学四年生の頃。
 習い事が忙しくてなかなか遊んでくれなくなったことが寂しくて、私は家に遊びに行った。
 私のお母さんは仕事で遅くなるらしく、夜まで帰ってこない。
 伊里くんの家で夜ご飯を食べること、というお母さんに内心お礼を言いながら、伊里くんが帰ってくるのをじっと待っていた。
 でも、幼かった私は眠気に耐えることができなくて、リビングの絨毯の上でぐっすりと眠ってしまったのだ。
 「あれ、うたちゃん眠ってるの?」
 伊里くんが帰ってきた! 嬉しくて早く起きたかったのに、まぶたが言うことを聞いてくれない。
 また少しずつまどろみに落ちていく意識を必死に繋ぎ止めていると、私の体にふわふわしたものが触れたのを感じた。
「……あ、ごめんね。起こしちゃった?」
 やっとのことで開いた目はまだ少し閉じていたけど、まぶたの間から伊里くんの優しい笑みが見えた。
 身じろぐと、身体に毛布がかかっていることに気付いた。
 (かけてくれたんだ)
 いつも伊里くんのベッドに畳まれている、ロケット模様の毛布。
「伊里くんの匂いだ」
 そう言ってへにゃりと笑うと、伊里くんの顔が赤くなる。
 風を引いたのかと思って暖かい毛布の中に招いたけれど、なぜか全力で断られてしまった。

「寂しくしちゃってごめんね、うたちゃん。今日はずっと一緒にいよう」
 思えば伊里くんへの思いが”恋”へと変わったのは、あの時だった気がする。


 ◇


「あーらまあー! びしょ濡れじゃないの!」
 あれから十五分ほど雨の中で抱きしめ合っていた私たちは、我に返った瞬間お互い真っ赤になった。
 ぎくしゃくとした動きで立ち上がり、手を引かれるまま伊里くんの家に向かった。

 玄関に入った瞬間大声を上げた伊里くんママにバスタオルを巻かれ、私、伊里くんの順番でお風呂に入った。
 私は伊里くんママに服を借り、今リビングのソファーで暖かいほうじ茶をいただいている。

「お待たせ」
 カラリと音を立て、伊里くんがリビングに入ってきた。
 小学校四年生ぶりの寝巻姿に、胸がどきどきと音を鳴らす。
 私はごまかすように口を開いた。
「懐かしいなあ、このリビング。あのロケットの毛布まだ持ってたんだね」
 テレビの横のタンスの上に、あのときの毛布が畳まれている。
 昔より色あせており、使い古されているのがよくわかって時間の流れを感じた。
「……うん、そう。小さい頃のお気に入りって、結構いつまでも取っておきたいものだよ」
 そう言った伊里くんは、毛布を広げて私の肩にかけてくれる。
(やっぱり、伊里くんの匂いがする)
 あのときはまだ純粋で、何も考えずに口から出た言葉だった。
 今は恥ずかしくって、とてもじゃないけど言えない。


「……君に、謝りたいことがあるんだ」
 伊里くんは、まるでトゲトゲしたものが喉を通っているかのような、苦しそうで痛そうな顔をしている。
 黙って頷くと、伊里くんはまた私を抱き寄せた。でも、先ほどよりかは優しい力で。
 私はハッと伊里くんママのことを思い出し、焦って目だけを動かし辺りを見回したが、リビングにはいないようだった。
 
 話を始めたのは伊里くんなのに、なかなか先を言わないことにしびれを切らした私は呟く。
「もう、うたちゃんって呼んでくれないの?」
「うたちゃん」

 被せるような勢いで名前を言う伊里くんに、少し笑ってしまった。
 少し肩の力が抜けたようで、伊里くんはぽつりぽつりと話し始める。

「……あの時、俺のせいでうたちゃんは……事故に遭ったんだ。俺が大雨の中習い事なんて行ったから、優しいきみは俺を迎えに来てしまった」
 
 私が四年生に上がった年の秋ごろ。
 あの日も今日と同じくらいの大雨が降っていた。
 そろばんの試験を控えていた伊里くんは、何が何でも稽古に行こうと小雨になったタイミングを見計らって家を出た。
 でも、帰りの時間になるころには再び強い雨が降り注いでいた。
 伊里くんの家で晩ご飯を食べる予定だった私は、なかなか帰ってこない伊里くんを心配して、料理をしている伊里くんママの目を盗んで迎えに行こうと思ったのだ。大雨の中、私は外に出た。
 
 でも小さい体は簡単に風に操られてしまい、足をもつれさせた私は道路に体が投げ出されてしまったのだ。
 ガードレールごしに目があったときの伊里くんの表情を、私は覚えている。
 
 車が早めに急ブレーキをかけたおかげで、運よく命に別状はなかった。
 しかし事故のショックにより、私はあのとき以前の記憶を失った。


 「ごめん……ごめんな……」
 あの時のことを思い返しているのか、伊里くんはうわごとのように謝罪を繰り返している。
「伊里くんが謝る必要はないのに。……私が考えなしだっただけだよ」
 そう言うと、伊里くんは苦しそうな表情をした。
 その顔を見て、私は悟った。
(伊里くんは優しいから、私が私のことを責めるほど苦しむんだ)
 私に危機感がなかったことで招いた事故だとは思うのだが、今私が言うべきなのはそうじゃない。
「許してほしいなんて言わないから……」
「……許すもなにも、私はずっと伊里くんのことが大好きだよ」
 あのときも、今までもずっと。
「記憶をなくしてた間も、私は『大森先輩』に恋してた。忘れても、もう一度恋をしたの」
 そう言った瞬間、伊里くんの綺麗な瞳から大粒の涙がこぼれ始めた。
 私はその頬に指を滑らせ、涙を拾う。
「俺も、……ずっと前から君のことが、うたのことが好きだった」
 あの時よりずっと大きくなった手が、私の頬を包み込む。
 いつの間にか、私も一緒になって泣いていた。

「私、忘れたいって言われたの傷ついたんだよ」
 今日の放課後、二年生の教室で目が合ったときのことを話すと、伊里くんは思いっきり歯を食いしばって頭を下げた。
「本当にごめん……。うたに記憶を取り戻してほしいって気持ちを押し付けたくなかったんだけど、『笹田さん』と目が合うと抱きしめたくなる衝動にかられるから……もう忘れてしまいたい、って思ったんだ」
 本当にごめん! と勢いよく謝罪を繰り返す伊里くんに、私の心は安堵で溢れかえった。
「嫌われたのかと思った」
「そんなわけない!」
 またもや被せるように言ってきた伊里くんがおかしくて、思わず吹き出してしまう。
 笑われたことを悔しそうにしながら、伊里くんは「あっ」と声を上げた。
「そういえば、今日頭を打ったって言ってただろ。もう大丈夫なのか?」   
 こうして話せていなかった期間の穴埋めをするかのように、伊里くんは途切れず次々に話をしてくる。
 私は給食後に伊里くんと話したことを思い出し、からかうように言う。
「忘れたいとか言ってたけど、過保護は隠しきれてなかったけどね」
「な! し……しょうがないだろ。うたが傷ついているとこはもう二度と見たくないんだ」
 頭を振りながら顔を赤くする伊里くん。
 私はたまらなくなって、伊里くんの胸に頭を預けた。

「また私と一緒にいてほしいって、言っても良い?」
「もちろん」
 そう言って微笑んだ伊里くんの表情は『大森先輩』として向けてくる表情よりもずっと甘くて、私だけの特別なものなのだと思うと嬉しすぎて胸が苦しい。
 いつの間にか床に落ちていたロケット模様の毛布を引き寄せる。
 胸に顔をうずめて毛布にくるまると、私が世界一安心できる場所が生まれた。
「眠たい?」
 伊里くんが声を出すたびに伝わってくる振動が愛おしい。
「ううん……。お母さんが帰ってくる前に帰らなきゃ」
「ふは、眠たそうだけどね。母さんが、一応連絡しておいてくれたって」
 良かった、と呟いた声は、しっかり音になったかどうかはわからない。
 柔らかなぬくもりに包まれて、私はまどろみに身をゆだねた。


 ◇


「おはよう、うた」
 朝自宅のドアを開けると、門の前には伊里くんが立っていた。
 今日から私たちは、一緒に登下校をすることにしたのだ。
「部活が一緒って、こういうときに得だよね」
 嬉しそうに言う伊里くんに、私の頬も緩む。

「げ!!!!!!」
「なにっ?」
 私が可愛くない大声を上げると、伊里くんは驚いて背中をそらせた。
「昨日部活のあと議案書配りに行こうと思ってたのに! すっかり忘れてた!」
 どーしよー……と項垂れていると、頭にぽんと手が乗せられるのを感じた。
「手伝うよ。俺も一緒だから大丈夫」
 生徒会長だからね、と得意げに腕を差し出してくる伊里くんは無邪気で、それはきっと、私にだけ見せてくれる表情だと思った。
 そろりと腕を絡めると、頼りがいのある足取りで前へと導いてくれる。
 私はとても幸せな気持ちでいつもの通学路を歩いた。