穏やかな午後の日差しが、遺跡の中庭に満ちていた。エリアーナは、大きくなってきたお腹を愛おしそうに撫でながら、薬草の選別をしていた。隣ではルーンが気持ちよさそうに昼寝をしている。これ以上ないほど、平和な時間だった。
その静寂を、最初に破ったのはルーンだった。
彼は突如として眠りから覚めると、全身の銀毛を逆立たせ、森の入り口に向かって低く、威嚇的な唸り声を上げた。それは、これまで森の魔物に対して見せたことのない、明確な敵意と警戒だった。
「どうしたの、ルーン?」
エリアーナが立ち上がった、その時だった。
ひたり、と。人の気配がした。
遺跡の入り口に、一人の男が音もなく立っていた。
陽光を弾く白銀の髪。彫刻のように整ってはいるが、一切の感情を削ぎ落とした、氷のような貌。そして、見る者の魂まで凍てつかせるような、絶対零度のアイスブルーの瞳。
その姿を見た瞬間、エリアーナの血の気が引いた。貴族社会の片隅にいた彼女でも、その男を知っていた。
(氷血公爵、カイエン・フォン・ヴォルフシュタイン……!)
なぜ、彼がここに? この北方の地を統べる、生ける伝説とも、歩く災厄とも呼ばれる男が。
カイエンは、唸り続けるルーンには目もくれず、ただエリアーナを観察していた。まるで、珍しい昆虫を標本にするかのように、冷徹な視線で。
その瞳が、彼の行動原理そのものだった。
彼がまだ十歳にも満たない少年だった頃、ヴォルフシュタイン公爵家は、今とは比べ物にならないほど温かい場所に満ちていた。父も母も、カイエンを深く愛し、感情豊かで優しい人だった。
悲劇は、一人の側近によってもたらされた。父が弟のように信頼していたその男は、甘言と忠誠を装い、数年かけて父と母に毒を盛り続けたのだ。
『カイエン坊ちゃま、これはお体に良い薬ですよ』
そう言って差し出された甘い飲み物。しかし、少年カイエンの論理的な思考は、些細な違和感を見逃さなかった。薬を飲んだ後の両親の顔色が、日ごとに悪くなっていくこと。そして、その側近が、両親の前から下がった一瞬だけ、口元に酷薄な笑みを浮かべることを。
彼は両親に訴えた。だが、信頼と愛情という「感情」に目が眩んだ両親は、幼い息子の言葉よりも、長年信じた側近を選んだ。
そして、カイエンの目の前で、両親は血を吐いて苦しみながら死んだ。
『感情は、人を欺く。愛も、信頼も、真実を曇らせる毒に過ぎない』
絶望の淵で、少年カイエンは悟った。信じられるのは、己の目で観察し、分析した「事実」と、そこから導き出される「論理」だけ。彼はその日、すべての感情を凍らせ、自らの心に錠をかけた。
以来、彼は人の言葉や表情を信じない。ただ、行動とその結果、そして物的証拠のみを判断材料とする。それが、彼が築き上げた、自分自身を守るための「論理の檻」だった。
そのカイエンの目に、今のエリアーナは「論理的にありえない存在」として映っていた。
罪人として追放された女が、聖獣を手懐け、死の森を浄化し、作物を育てている。噂と事実が乖離しすぎている。この矛盾こそ、彼が最も嫌悪し、そして執着する「謎」だった。
「貴様が、エリアーナ・フォン・ローゼンベルクか」
初めて発せられた声は、地を這うように低く、冷たかった。
エリアーナは、恐怖で身がすくむ。この男の登場は、イコール「死」か、あるいは「絶望」を意味する。ようやく手に入れた、我が子との穏やかな生活が、音を立てて崩れていくのが分かった。
その静寂を、最初に破ったのはルーンだった。
彼は突如として眠りから覚めると、全身の銀毛を逆立たせ、森の入り口に向かって低く、威嚇的な唸り声を上げた。それは、これまで森の魔物に対して見せたことのない、明確な敵意と警戒だった。
「どうしたの、ルーン?」
エリアーナが立ち上がった、その時だった。
ひたり、と。人の気配がした。
遺跡の入り口に、一人の男が音もなく立っていた。
陽光を弾く白銀の髪。彫刻のように整ってはいるが、一切の感情を削ぎ落とした、氷のような貌。そして、見る者の魂まで凍てつかせるような、絶対零度のアイスブルーの瞳。
その姿を見た瞬間、エリアーナの血の気が引いた。貴族社会の片隅にいた彼女でも、その男を知っていた。
(氷血公爵、カイエン・フォン・ヴォルフシュタイン……!)
なぜ、彼がここに? この北方の地を統べる、生ける伝説とも、歩く災厄とも呼ばれる男が。
カイエンは、唸り続けるルーンには目もくれず、ただエリアーナを観察していた。まるで、珍しい昆虫を標本にするかのように、冷徹な視線で。
その瞳が、彼の行動原理そのものだった。
彼がまだ十歳にも満たない少年だった頃、ヴォルフシュタイン公爵家は、今とは比べ物にならないほど温かい場所に満ちていた。父も母も、カイエンを深く愛し、感情豊かで優しい人だった。
悲劇は、一人の側近によってもたらされた。父が弟のように信頼していたその男は、甘言と忠誠を装い、数年かけて父と母に毒を盛り続けたのだ。
『カイエン坊ちゃま、これはお体に良い薬ですよ』
そう言って差し出された甘い飲み物。しかし、少年カイエンの論理的な思考は、些細な違和感を見逃さなかった。薬を飲んだ後の両親の顔色が、日ごとに悪くなっていくこと。そして、その側近が、両親の前から下がった一瞬だけ、口元に酷薄な笑みを浮かべることを。
彼は両親に訴えた。だが、信頼と愛情という「感情」に目が眩んだ両親は、幼い息子の言葉よりも、長年信じた側近を選んだ。
そして、カイエンの目の前で、両親は血を吐いて苦しみながら死んだ。
『感情は、人を欺く。愛も、信頼も、真実を曇らせる毒に過ぎない』
絶望の淵で、少年カイエンは悟った。信じられるのは、己の目で観察し、分析した「事実」と、そこから導き出される「論理」だけ。彼はその日、すべての感情を凍らせ、自らの心に錠をかけた。
以来、彼は人の言葉や表情を信じない。ただ、行動とその結果、そして物的証拠のみを判断材料とする。それが、彼が築き上げた、自分自身を守るための「論理の檻」だった。
そのカイエンの目に、今のエリアーナは「論理的にありえない存在」として映っていた。
罪人として追放された女が、聖獣を手懐け、死の森を浄化し、作物を育てている。噂と事実が乖離しすぎている。この矛盾こそ、彼が最も嫌悪し、そして執着する「謎」だった。
「貴様が、エリアーナ・フォン・ローゼンベルクか」
初めて発せられた声は、地を這うように低く、冷たかった。
エリアーナは、恐怖で身がすくむ。この男の登場は、イコール「死」か、あるいは「絶望」を意味する。ようやく手に入れた、我が子との穏やかな生活が、音を立てて崩れていくのが分かった。
