銀の福音

 かつて「黒の森」と呼ばれた呪われた大地は、今や「創生の森」と呼ばれ、生命の息吹に満ち溢れていた。その中央には、白亜の壁が美しいエリアーナの薬学研究所がそびえ立ち、北方の民の健康と、豊かな土壌の礎となっている。

 戦いの傷跡は、人々の記憶からも、大地からも、少しずつ癒えようとしていた。

 「母上!見てください!」

 銀色の髪を風になびかせながら、小さな少年がエリアーナの元へ駆け寄ってくる。カイエンとエリアーナの息子、アルヴィン。今年で五歳になる彼は、父の「星の血脈」と、母のローゼンベルク家の血――「福音」の力を色濃く受け継ぎ、その笑顔一つで、足元の花々を咲かせるほどの、規格外のマナを宿していた。

 「まあ、アル。またお花を咲かせたのね。お上手だこと」

 エリアーナは、愛しい我が子を抱きしめる。この穏やかな日常こそ、彼女が命を懸けて守り抜いた、何よりも尊い宝物だった。

 その傍らには、常に一人の青年が、影のように寄り添っていた。

 エリアーナの異父弟、フェリクス。かつて「無貌」と呼ばれた暗殺者だった彼は、エリアーナに命を救われて以来、その名を捨て、姉とその息子を守る、忠実な守護者となっていた。

 名も顔も持たず、ただ組織の道具として生きてきた彼にとって、エリアーナから与えられた「フェリクス」という名と、「弟」という役割は、生まれて初めて得た、自分自身の存在証明だった。

 『この命は、姉さんと、アルヴィンのためにある。二人が与えてくれたこの温かい世界を、今度こそ、俺が守り抜く』

 その誓いが、彼の行動原理のすべてだった。彼の研ぎ澄まされた五感は、常に家族に向けられ、僅かな脅威も見逃さない。

 そんな穏やかな午後を切り裂くように、ヴォルフシュタイン城から急報が届いた。

 「王都からの、正式な使節団が、北の関所を通過した、と……」

 カイエンの執務室で報告を受けたエリアーナとギデオンの顔に、緊張が走る。

 黒獅子将軍バルドゥールの反旗の後、王都は内乱状態に陥り、ここ数年、北方との間に目立った動きはなかったはずだった。

 数日後、使節団はヴォルフシュタイン城に到着した。

 使節団を率いる男は、ヴァレリウス伯爵と名乗った。柔らかな物腰、理知的な瞳。彼はカイエンの前に深々と頭を下げ、恭順の意を示した。

 「この度の非礼、王家に代わり、深くお詫び申し上げる。すべては、『賢者の真眼』を名乗る賊臣どもが、王太子殿下を誑かしたことによるもの。黒獅子将軍の尽力により、組織の幹部は一掃され、王都はようやく平穏を取り戻しました」

 そして、ヴァレリウス伯爵は、本題を切り出した。

 「つきましては、公爵閣下との間に、正式な和平条約を結びたく。そして、一つ、恥を忍んでのお願いが……。組織が残した呪いにより、王都では今、原因不明の病が蔓延しております。つきましては、エリアーナ様の聖なる錬金術のお力で、民を救ってはいただけないでしょうか」

 あまりにも甘く、そして都合の良すぎる申し出。

 カイエンは、感情を排した瞳で、目の前の男を観察していた。

 だが、フェリクスだけは、その男の柔和な笑みの奥に隠された、底知れない闇を感じ取っていた。それは、かつて自分も属していた、影の世界の匂い。

 (……こいつ、偽物だ)

 魂の奥底で、警鐘が鳴り響いていた。