銀の福音

 戦場の喧騒が、嘘のように静まり返った。

 エリアーナの解析結果を記した羊皮紙を握りしめ、黒獅子将軍バルドゥールは天を仰いだ。その顔は、絶望と、自嘲と、そして、燃え盛るような怒りに歪んでいた。

 自分が信じた秩序。そのために親友を殺し、心を捨て、修羅と化した。その全てが、巨大な悪意によって仕組まれた、滑稽な茶番だったというのか。

 彼の脳裏に、自らが斬った親友の最後の言葉が蘇る。

 『バルドゥール……お前が信じる正義は、本当に民のためのものか……?それとも、お前を縛り付ける、ただの枷か……?』

 今なら、その意味が痛いほど分かる。自分は、国に裏切られたのではない。自分が信じた「力による秩序」という、空虚な偶像に裏切られたのだ。

 『理想も、正義も、人の心も、全ては裏切る』

 そう嘯いてきた自分こそが、最も大きな嘘に囚われていた。

 「……そうか。ならば、俺が下すべき最後の裁きは、一つしかない」

 バルドゥールは、ゆっくりと立ち上がると、背後に控えていた副官――常に彼の傍らにあり、戦況を報告していた男――を、振り返りもせずに戦斧で斬り捨てた。その男こそ、「賢者の真眼」から送り込まれていた、最高位の監視役だった。

 「全軍に告ぐ!これより、我らは真の敵を討つ!王都に巣食う賊臣、『賢者の真眼』を、一人残らずこの世から駆逐する!」

 それは、力の秩序に殉じてきた男が、初めて自らの意志で、自らの正義のために振るう、贖罪の刃だった。黒獅子の軍勢は、その矛先を反転させ、混乱する王都軍内の「賢者の真眼」の息がかかった者たちへと、牙を剥いた。

 その頃、ヴォルフシュタイン城、エリアーナの寝室。

 母と暗殺者の死闘は、最終局面を迎えていた。

 「……なぜだ。なぜ、お前はそこまでして戦う。ただの子一人のために」

 「無貌」は、エリアーナの執拗な抵抗に、初めて焦りの色を浮かべていた。

 「あなたには、分からないでしょうね」

 エリアーナは、息も絶え絶えになりながら、最後の切り札を手に、笑った。

 「何も持たないあなたには。守るべきものがあるということが、どれほどの力を人に与えるのかを!」

 彼女が投げつけたのは、一見、ただの水が入ったフラスコ。しかし、それが床に叩きつけられた瞬間、中の液体は瞬時に気化し、部屋中のマナを乱反射させる、無数の光の粒子となって舞い上がった。

 「これは……!」

 「錬金術の基礎よ。『光の飽和』。あらゆる影は、光の前では存在できない」

 エリアーナが作り出した光の粒子は、「無貌」が纏っていた影の衣を無力化し、その素顔を白日の下に晒した。そこに現れたのは、驚くほど若く、そして、エリアーナ自身とどこか面影が似た、一人の青年の顔だった。

 「……まさか、あなたは……」

 エリアーナは息を呑む。姉リリアーナが遺した、もう一つの謎。追放された侍女マーサの行方。もしや、この青年こそが――。

 動揺するエリアーナの隙を突き、「無貌」は最後の力で、アルヴィンが眠る揺りかごへと飛びかかった。

 「グルオオオオッ!」

 ルーンの牙が、再びその体を捉える。だが、暗殺者の毒の刃もまた、ルーンの巨体を深く切り裂いていた。