夜陰に紛れたカイエンの奇襲は、完璧だった。

 バルドゥールの本陣は、炎と混乱に包まれる。その中心で、二頭の獅子が出会った。

 「……来たか、カイエン」

 燃え盛る天幕を背に、バルドゥールが巨大な戦斧を構える。

 「久しぶりだな、バルドゥール。相変わらず、獣のような目をしている」

 カイエンの剣が、氷の輝きを放つ。

 言葉は、もはや不要だった。二人の武器が交錯し、火花が散る。それは、個人的な復讐心や、国家の存亡を超えた、互いの「正義」と「哲学」のぶつかり合いだった。

 彼が親友を斬ったあの日、彼は、自らの心も殺した。理想や感情という不確かなものを捨て、絶対的な力による秩序こそが、国を、民を、悲劇から救う唯一の道だと信じた。その信念のためならば、彼は喜んで修羅となろう。

 『俺のやり方だけが、二度とあの日のような悲劇を繰り返さない、唯一の道なのだ』

 カイエンが守ろうとする愛や家族という存在は、彼にとって、かつて国を乱した親友の理想と同じ、「秩序を乱す毒」にしか見えなかった。

 剣を交えながら、バルドゥールはカイエンの変化に気づいていた。

 (……なんだ、この剣は。以前の奴の剣は、もっと冷たく、機械のようだった。だが、今の奴の剣には、迷いがない。まるで、燃え盛る氷……!)

 カイエンの剣は、怒りと、愛と、そして揺るぎない覚悟によって、バルドゥールの予測を遥かに超えた領域へと達していた。

 その頃、ヴォルフシュタイン城では、エリアーナが「王水」を武器に、「無貌」と対峙していた。

 「……面白い女だ。だが、お前一人で、俺を止められるとでも?」

 「ええ。止めてみせるわ。姉が、その命をもって繋いでくれた、この未来を。あなたのような、何も持たない空っぽの存在に、奪わせてなるものですか」

 その言葉は、「無貌」の空虚な心を、初めて激しく揺さぶった。

 二人が激しく火花を散らす、その背後。

 エリアーナの研究室では、彼女が戦いの直前に起動させていた自動分析装置が、姉リリアーナの血液と、「星雫苔」、そしてアルヴィンの羊水から採取したマナの解析を、静かに終えようとしていた。

 そこに映し出されたのは、衝撃の事実だった。

 ローゼンベルク家の呪いとは、光と影の対立などではない。それは、古代の錬金術師が、自らの血筋に埋め込んだ、時限式の「福音」。「星の血脈」を持つ者の魔力と深く交わった時、その魔力を触媒として、世界中のマナを安定させ、あらゆる争いの火種を消し去る救世主が産まれるという、あまりにも壮大な平和への願いだった。

 そして、「賢者の真眼」の真の目的は、その力を乗っ取り、世界中の人間を、マナと思考を支配された、意のままに動く人形へと変えること。

 その解析結果が、ギデオンの指示により伝令兵によって、戦場のカイエンの元へと届けられていた。

 戦場で、カイエンはついにバルドゥールの体勢を崩し、その喉元に剣を突きつけた。

 「……終わりだ、バルドゥール」

 「……殺せ。それが、敗者の運命だ」

 だが、カイエンは剣を収めた。そして、駆けつけた伝令兵が、バルドゥールの前に、エリアーナの解析結果を記した羊皮紙を叩きつける。

 「貴様が信じる王家と、貴様が信じる秩序の、これが正体だ。読め」

 羊皮紙に記された、信じがたい真実。

 「賢者の真眼」が、王家の中枢にまで巣食い、この戦争そのものが、アルヴィンという赤子一人を手に入れるための、壮大な茶番であったという事実。

 バルドゥールの瞳が、激しく揺れた。

 自分が信じ、親友を殺してまで守ろうとした秩序は、最初から、巨大な悪意に利用されていただけだったというのか。

 「……嘘だ……」

 「嘘だと思うか?ならば、お前の心に問え。俺の目が、嘘をついているように見えるか、と」

 カイエンのアイスブルーの瞳には、復讐の炎ではなく、ただ、悲しいまでの真実の色が宿っていた。

 バルドゥールの足元で、彼が信じてきた「正義」という名の城が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。