「カイエン様が、敵本陣へ……!」

 伝令がもたらした吉報に、城内は歓喜に沸いた。だが、エリアーナの心だけが、氷のように冷えていた。

 姉リリアーナが遺した警告。

 『賢者の真眼の本当の狙いは、ローゼンベルクの血が持つ、呪いの力そのもの』。

 カイエンという最大の守護者を失った今この瞬間こそ、敵にとって最大の好機。

 「ギデオン。城内の警備を最大限に強化してください。特に、この子の寝室と私の研究室を」

 エリアーナのただならぬ気配に、ギデオンは即座に兵を動かした。だが、敵はすでに、城の深くにまで侵入していた。

 その夜、アルヴィンの寝室を見回っていた侍女の一人が、ふと首筋に冷たい感触を覚えた。それが、彼女の最期の記憶となった。数分後、何食わぬ顔で部屋を出てきた侍女。だが、その歩き方、そして瞳の奥に宿る昏い光は、もはや彼女のものではなかった。

 リリアーナを殺害し、一度はルーンに撃退された暗殺者「無貌」が、新たな姿を得て、再び動き出したのだ。

 彼は、感情と個性を捨て、ただ命令のままに影として生きることを強いられてきた。彼にとって、任務を遂行することだけが、自らの存在を証明する唯一の手段。だが、その心の奥底には、名も顔も持たない空っぽの自分自身に対する、静かな絶望と、すべてを無に帰したいという破壊衝動が渦巻いていた。

 『星の血脈』と『呪い』、二つの強大な力を宿す赤子。その存在は、彼の空虚な心を揺さぶる、あまりにも眩しすぎる光。その光を消し去ること。それが、彼に与えられた任務であり、彼自身の歪んだ救済でもあったのだ。

 エリアーナは、研究室に籠り、寝室へと続く全ての通路に、即席の錬金術トラップを仕掛けていた。

 マナに反応して閃光と爆音を発する警報装置。踏めば粘着性の液体が絡みつく罠。そして、扉には、認可した者以外のマナを感知すると、強力な麻痺毒を噴霧する仕掛けを。

 かつて、人を救うために使われた彼女の知識が今、人の命を奪うための、恐ろしい牙を剥いていた。

 追放の馬車で誓った、我が子との穏やかな生活。その理想を守るためならば、彼女は悪魔にさえなる覚悟だった。姉の死、両親の歪んだ愛、そのすべてを知った今、彼女を縛るものは、もう何もなかった。

 『私の理想を、私の家族を、これ以上誰にも奪わせはしない』

 母性という名の、最も原始的で、最も強い力が、彼女の行動原理となっていた。

 侍女の姿をした「無貌」が、エリアーナの寝室へと続く最後の扉を開けた、その瞬間。

 凄まじい勢いで、麻痺毒の霧が噴き出した。だが、「無貌」は咄嗟に、隣にいた別の侍女を盾にし、その体を貫通させてでも、室内へと侵入する。

 「グルオオオオッ!」

 待ち構えていたルーンが、聖なる波動と共に飛びかかった。しかし、「無貌」は懐から取り出した黒い水晶をかざす。水晶は不気味な光を放ち、ルーンの動きを一時的に鈍らせた。

 その隙に、「無貌」はアルヴィンが眠る揺りかごへと、その毒の刃を伸ばす。

 「――させません」

 立ちはだかったのは、エリアーナだった。その手には、フラスコに入った、沸騰する紅蓮の液体が握られていた。

 「これは、『王水』。金属さえも溶かす、錬金術師が作り出した、最も原始的な牙よ」

 母は、我が子を守るため、自ら鬼神と化して、最強の暗殺者の前に立ちはだかった。