物音のする方へ、エリアーナは警戒しながら歩を進めた。瘴気で視界が悪い。湿った土を踏みしめる自身の足音だけが、やけに大きく聞こえた。

 開けた場所にたどり着いた時、彼女は息を呑んだ。

 そこに横たわっていたのは、巨大な銀色の狼だった。体長は荷馬車ほどもあり、月光を浴びたその毛皮は、まるで溶けた銀のように輝いている。間違いない、建国神話に登場する伝説の聖獣、フェンリルだ。

 しかし、その神々しい姿は見る影もなかった。全身は紫黒色の瘴気にまだらに蝕まれ、呼吸は浅く、時折苦しげに身体を痙攣させている。その琥珀色の瞳には、涙の膜が張っていた。

 (死にかけている……)

 聖獣は、世界の調和の象徴。その聖獣がこれほど苦しんでいるということは、この森の汚染が、もはや限界に達している証拠だった。

 普通なら、逃げ出すのが賢明だろう。しかし、エリアーナの足は動かなかった。

 彼女の脳裏に、断罪された夜会の光景が蘇る。誰にも助けてもらえなかった、あの孤独。

 そして、お腹の子の胎動。守りたい、という燃えるような衝動。

 (見捨てられない)

 それは、錬金術師としての「理想」だった。目の前の命を救える可能性があるのなら、全力を尽くす。それが、彼女が自らに課した、ただ一つのルールだったからだ。

 「待っていて。必ず、助けてあげる」

 エリアーナは、聖獣にそう囁くと、森の中を駆け出した。解毒薬の材料を探すためだ。

 彼女の頭の中の知識が、最適な調合式を弾き出す。

 『瘴気を中和するには、強い生命力を持つ植物のマナが必要。月光茸、涙の雫草、そして触媒として、陽光を溜め込む性質を持つ石……』

 夜通し、彼女は森を彷徨った。瘴気に当てられ、何度も吐き気を催しながら。それでも、見つけるたびに薬草を摘み、石を探した。

 ようやく材料が揃ったのは、夜が白み始める頃だった。彼女は、拾い集めた石を組み合わせて即席の乳鉢を作り、薬草をすり潰していく。火打ち石で火を起こし、水筒の水を煮沸する。その手際は、長年の研究で培われた、無駄のないものだった。

 数時間後、緑色に輝く、とろりとした液体が完成した。

 エリアーナは、それを手に、ふらつく足で聖獣の元へ戻った。

 聖獣は、さらに弱っていた。もはや、目を開ける力も残っていないようだ。

 エリアーナは、解毒薬を染み込ませた布を、そっと聖獣の口元に当てる。

 「お願い……生きて……」

 祈るような思いで、一滴、また一滴と薬を垂らす。

 すると、奇跡が起きた。

 聖獣の身体を蝕んでいた紫黒色の瘴気が、まるで朝霧が晴れるように、すうっと消えていく。荒かった呼吸は、次第に穏やかな寝息へと変わっていった。

 夜が明け、朝日が森に差し込む頃、聖獣はゆっくりと目を開けた。

 その琥珀色の瞳は、もう涙で濡れてはいなかった。ただ、目の前の小さな人間を、静かに、そして深く見つめていた。

 エリアーナは、安堵からその場に座り込む。

 すると、巨大な聖獣がゆっくりと身体を起こし、彼女の隣にそっと身を寄せた。そして、その大きくて温かい、もふもふの身体で、彼女を優しく包み込んだのだった。

 それは、言葉を超えた、魂の契約の瞬間だった。

 一人の追放された錬金術師と、一頭の傷ついた聖獣。

 二人の孤独な魂が、この絶望の森で、かけがえのない家族になった。