王都は、カイエンの独立宣言によって、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
「反逆者、カイエンを討て!」
貴族たちの声に後押しされるように、病に倒れた国王に代わり、王太子が北方討伐軍の結成を宣言した。その決定を裏で操っていたのが、王太子の側近に深く食い込んでいる「賢者の真眼」であることは、誰も知らなかった。
そして、その討伐軍の総大将に任命された男の名が、北方の地に衝撃を走らせた。
バルドゥール・フォン・シュヴァルツェンベルク侯爵。
かつてカイエンと共に騎士団に所属し、その獰猛な戦いぶりから"黒獅子将軍"と畏れられる男。
ヴォルフシュタイン城の作戦室で、その報告を受けたギデオンは、苦々しい表情でカイエンに告げた。
「よりにもよって、あの男を……。公爵様、奴は危険です」
カイエンは、地図を睨みつけたまま、静かに答えた。
「ああ、知っている。奴は、俺と同じだ。いや、俺以上に、人の心を信じていない」
彼がまだ若き騎士だった頃、平民出身の親友がいた。二人は身分を超え、共に国の未来を憂い、正義を誓い合った。しかし、その親友は、貴族社会の腐敗に絶望し、大規模な反乱を企てた。バルドゥールは、国への忠誠と、友への友情の狭間で苦悩した末、自らの手で、その親友を斬った。
『理想も、正義も、人の心も、全ては裏切る。信じられるのは、絶対的な力と、それによってもたらされる秩序だけだ』
その日以来、彼は人の心を捨て、力だけを信奉する修羅となった。カイエンが「論理」で国を治めるなら、彼は「恐怖」で国を治める。二人は、同じ絶望から生まれながら、全く異なる道を選んだ、鏡合わせの存在だった。
一方、グラーヴェン村の診療所。
リリアーナは、老婆エルマから聞いた「侍女マーサ」のことが、頭から離れなかった。
そんな彼女の元に、一人の男が密かに訪れた。薬売りに扮した、「賢者の真眼」の使者だった。
「リリアーナ様。あなた様が、このような場所で朽ち果てるべきではない」
男は、リリアーナの心の弱さを見透かすように、甘い言葉を囁いた。
「我々は、あなた様の本当の価値を知っております。そして、あなた様の出生の秘密も」
「……!」
「もし、我々と手を組んでいただけるなら、エリアーナ様から公爵を奪い、あなた様こそが、北方の支配者となる道をお示ししましょう。偽りの聖女ではなく、本物の女王として、歴史にその名を刻むのです」
それは、悪魔の誘惑だった。
贖罪の道に光を見出し始めていたリリアーナの心に、消えかけたはずの承認欲求の炎が、再び燻り始める。女王。その響きは、何よりも甘美だった。
男は、二つの小瓶を置いて立ち去った。
「良きお返事を、お待ちしております」
小瓶の中には、人の心を操り、意のままにするという、禁断の秘薬が入っていた。
ヴォルフシュタイン城。
エリアーナは、カイエンの書斎で、北方に迫る戦争の気配を感じ、不安を隠せずにいた。
「大丈夫だ」
カイエンは、そんな彼女を背後から優しく抱きしめた。
「俺がお前たちを守ると言ったはずだ。黒獅子だろうと、王都の軍だろうと、俺たちの楽園を脅かす者は、一人残らず排除する」
その言葉は、絶対君主としての、そして、一人の夫としての、力強い誓いだった。
エリアーナは、カイエンの胸に顔をうずめ、来るべき嵐に備えるように、強く目を閉じた。
彼女のお腹の中で、新しい命が、ぽこん、と力強く動いた。
「反逆者、カイエンを討て!」
貴族たちの声に後押しされるように、病に倒れた国王に代わり、王太子が北方討伐軍の結成を宣言した。その決定を裏で操っていたのが、王太子の側近に深く食い込んでいる「賢者の真眼」であることは、誰も知らなかった。
そして、その討伐軍の総大将に任命された男の名が、北方の地に衝撃を走らせた。
バルドゥール・フォン・シュヴァルツェンベルク侯爵。
かつてカイエンと共に騎士団に所属し、その獰猛な戦いぶりから"黒獅子将軍"と畏れられる男。
ヴォルフシュタイン城の作戦室で、その報告を受けたギデオンは、苦々しい表情でカイエンに告げた。
「よりにもよって、あの男を……。公爵様、奴は危険です」
カイエンは、地図を睨みつけたまま、静かに答えた。
「ああ、知っている。奴は、俺と同じだ。いや、俺以上に、人の心を信じていない」
彼がまだ若き騎士だった頃、平民出身の親友がいた。二人は身分を超え、共に国の未来を憂い、正義を誓い合った。しかし、その親友は、貴族社会の腐敗に絶望し、大規模な反乱を企てた。バルドゥールは、国への忠誠と、友への友情の狭間で苦悩した末、自らの手で、その親友を斬った。
『理想も、正義も、人の心も、全ては裏切る。信じられるのは、絶対的な力と、それによってもたらされる秩序だけだ』
その日以来、彼は人の心を捨て、力だけを信奉する修羅となった。カイエンが「論理」で国を治めるなら、彼は「恐怖」で国を治める。二人は、同じ絶望から生まれながら、全く異なる道を選んだ、鏡合わせの存在だった。
一方、グラーヴェン村の診療所。
リリアーナは、老婆エルマから聞いた「侍女マーサ」のことが、頭から離れなかった。
そんな彼女の元に、一人の男が密かに訪れた。薬売りに扮した、「賢者の真眼」の使者だった。
「リリアーナ様。あなた様が、このような場所で朽ち果てるべきではない」
男は、リリアーナの心の弱さを見透かすように、甘い言葉を囁いた。
「我々は、あなた様の本当の価値を知っております。そして、あなた様の出生の秘密も」
「……!」
「もし、我々と手を組んでいただけるなら、エリアーナ様から公爵を奪い、あなた様こそが、北方の支配者となる道をお示ししましょう。偽りの聖女ではなく、本物の女王として、歴史にその名を刻むのです」
それは、悪魔の誘惑だった。
贖罪の道に光を見出し始めていたリリアーナの心に、消えかけたはずの承認欲求の炎が、再び燻り始める。女王。その響きは、何よりも甘美だった。
男は、二つの小瓶を置いて立ち去った。
「良きお返事を、お待ちしております」
小瓶の中には、人の心を操り、意のままにするという、禁断の秘薬が入っていた。
ヴォルフシュタイン城。
エリアーナは、カイエンの書斎で、北方に迫る戦争の気配を感じ、不安を隠せずにいた。
「大丈夫だ」
カイエンは、そんな彼女を背後から優しく抱きしめた。
「俺がお前たちを守ると言ったはずだ。黒獅子だろうと、王都の軍だろうと、俺たちの楽園を脅かす者は、一人残らず排除する」
その言葉は、絶対君主としての、そして、一人の夫としての、力強い誓いだった。
エリアーナは、カイエンの胸に顔をうずめ、来るべき嵐に備えるように、強く目を閉じた。
彼女のお腹の中で、新しい命が、ぽこん、と力強く動いた。
