冬の訪れが近い北方の地。

 ヴォルフシュタイン公爵の居城は、厳しい冬に備える人々の活気と、新たな時代の幕開けを予感させる静かな熱気に満ちていた。

 グラーヴェン村の事件から、季節は一つ巡った。エリアーナのお腹は目に見えて大きくなり、彼女はカイエンの腕に守られた絶対的な安息の中で、穏やかな日々を過ごしていた。

 「見てください、カイエン様。この設計図を」

 城の一室に設けられた彼女専用の研究室で、エリアーナは巨大な羊皮紙を広げた。そこに描かれていたのは、黒の森の跡地に建設される、薬学研究所と診療所の壮大な青写真だった。

 「ここでは、身分に関係なく、誰もが最高の治療を受けられます。そして、『星雫苔』を応用すれば、北方の不毛な土地さえも、豊かな穀倉地帯に変えられるはずです」

 その瞳は、もはや絶望に追われた罪人のものではなく、希望に満ちた未来を創造する、一人の錬金術師の輝きを放っていた。

 カイエンは、その愛しい横顔と、彼女が描く未来の設計図を、万感の思いで見つめていた。

 かつて、彼の「論理」は、自らを守るための冷たい檻だった。だが、エリアーナという愛を知り、彼の論理は、彼女が夢見る「楽園」を現実にするための、力強い設計図へと進化した。

 王都との対立、諸侯たちの掌握、食料問題の解決。全ては、エリアーナと生まれてくる子が、誰にも脅かされず、心から笑って暮らせる王国を築くための、論理的な布石なのだ。

 「素晴らしい。すぐに最高の技師を集めよう。お前が望むなら、天に届く塔でも、湖に浮かぶ庭園でも、俺が作らせてみせる」

 彼の言葉に、エリアーナははにかんだ。二人の間には、婚約者としての甘やかな空気が流れていた。

 しかし、その平穏は、水面下で蠢く世界の大きなうねりと、常に隣り合わせだった。

 カイエンが「エリアーナ・フォン・ローゼンベルクを正式な婚約者として迎え入れ、その子を世継ぎとする」と北方全土に宣言したことで、王都との関係は、もはや修復不可能な段階にまで悪化していた。

 その頃、北の辺境、グラーヴェン村。

 村の復興と共に新設された小さな診療所で、リリアーナは黙々と薬草をすり潰していた。

 罪人として、彼女はここで医療奉仕を命じられていた。華やかなドレスも、取り巻きの賞賛もない。ただ、自らが犯した罪の重さと向き合う、地道な日々。

 最初は絶望していた彼女だったが、治療した村人から掛けられる、ささやかな「ありがとう」という言葉に、これまで感じたことのない、心の温もりを感じ始めていた。

 蝶と花の記憶。妹への劣等感から始まった彼女の人生は、常に誰かと比較し、誰かの上に立つことだけを目指していた。だが、すべてを失った今、彼女は初めて、他者からの純粋な感謝に触れていた。

 『私にも、誰かの役に立てることがあるのかもしれない……』

 その小さな希望が、彼女の行動原理となりつつあった。だが、心の奥底に染み付いた「特別でありたい」という承認欲求の炎は、まだ完全には消えてはいなかった。

 そんなある日、診療所に一人の老婆が訪れた。グラーヴェン村の惨劇で、息子夫婦を亡くしたという老婆、名はエルマ。リリアーナは、彼女の傷ついた心を癒そうと、献身的に世話を焼いた。

 その老婆が、ふと、リリアーナの顔をまじまじと見つめて言った。

 「あんた……昔、ローゼンベルク侯爵家に仕えていた侍女頭の、マーサによう似とるね……」

 その名を聞いた瞬間、リリアーナの心臓が凍りついた。

 マーサ。それは、リリアーナとエリアーナが生まれる前に、不義の疑いをかけられ、侯爵家を追放されたという、母親付きの侍女の名前だった。