「動かないで、レオン。それを起動させれば、あなたのマナは暴走し、塵となって消えるだけよ」

 エリアーナの冷静な声に、レオンは動きを止めた。彼女の瞳は、彼の狂気を見透かし、その行動の結末を正確に予見していた。

 「……なぜ、それを」

 「あなたの後ろにいる組織が使う錬金術は、基礎理論が古すぎるの。その程度の術、私には手に取るように分かる」

 エリアーナは、試験管をレオンに投げ渡した。

 「それを飲めば、暴走は止められる。そして、騎士としてではなく、人として罪を償いなさい。それが、私があなたに与える、最後の情けよ」

 その言葉は、レオンの砕け散ったプライドに、深く突き刺さった。

 最後まで、自分は彼女の手のひらの上にいたのだ。自分の信じた正義も、忠誠も、全てが滑稽な道化芝居だったのだと、彼は思い知らされた。

 「……あ……ああ……」

 レオンは崩れ落ち、試験管を握りしめたまま、ただ嗚咽した。

 エリアーナは、その無様な姿には目もくれず、錯乱したままの姉、リリアーナに向き直った。

 「姉様」

 その声に、リリアーナは怯えたように顔を上げる。

 「あなたの血は、もう必要ありません」

 エリアーナは、自らの腕にナイフを当て、その血を空のビーカーへと滴らせた。

 「私と姉様は、双子の姉妹。私たちの血に流れるマナの基本構造は、同じはず。ならば、私の血でも、解呪薬の触媒は作れる」

 彼女の理想は、「人々を救うこと」。そのためならば、姉の血を奪うという非情な選択さえ辞さなかった。だが、カイエンという絶対的な支えを得て、彼女の心には僅かな余裕が生まれていた。

 憎い姉。だが、同時に、世界でたった一人の家族。

 『お前の論理が、愛する者を守れないと言うのなら……その時は、お前の論理の方が間違っているのだ』

 カイエンの父の言葉が、彼女の脳裏にも響いていた。姉を断罪し、切り捨てることは、論理的に正しいかもしれない。だが、それは、かつての自分と同じように、彼女を孤独な絶望に突き落とすだけだ。ならば、自分の血を使い、姉に「償う機会」を与えること。それが、彼女が見出した、理想と家族愛を両立させる、唯一の答えだった。

 エリアーナは、自らの血と「星雫苔」を調合し、強力な解呪薬を瞬く間に生成していく。その姿は、神々しくさえあった。

 完成した薬は、カイエンの兵士たちの手で、暴走する村人たちに投与されていく。黒い血管は消え、理性を失った瞳に、穏やかな光が戻っていく。

 村に、静かな夜明けが訪れようとしていた。

 すべての呪いが解かれた頃、リリアーナは、エリアーナの前に、静かにひざまずいた。

 「……ごめんなさい……エリアーナ……」

 それは、彼女が生まれて初めて、心の底から口にした、謝罪の言葉だった。蝶と花の記憶から始まった、長い、長い嫉妬と劣等感の物語が終わった瞬間だった。

 エリアーナは何も言わず、ただ、朝日を浴びる姉の姿を、静かに見つめていた。

 事件から数日後。

 復興の始まったグラーヴェン村で、エリアーナはカイエンと二人、丘の上に立っていた。

 「リリアーナとレオンは、王都へ送還せず、この北方の地で、その知識と労働力をもって、民のために尽くさせることにした。それが、最も論理的な償いの形だ」

 カイエンの言葉に、エリアーナは静かに頷いた。

 「カイエン様」

 「なんだ」

 「私、決めました。この北方の地に、世界一の薬学研究所と、誰もが無料で治療を受けられる診療所を作ります。私の錬金術で、この地を、誰にも脅かされない、豊かな楽園にしてみせます」

 それは、追放された錬金術師が、ようやく見つけた、本当の夢だった。

 カイエンは、その言葉に微笑むと、エリアーナを優しく抱きしめた。

 「ならば俺は、お前とその子、そして、お前が作る未来を、何者からも守り抜く、最強の城壁となろう。――俺の唯一人の女として、俺の隣で、共に未来を創造してはくれないか」

 エリアーナは、涙を浮かべながら、その胸に顔をうずめた。

 「……はい。あなたの氷を溶かせるのが、この私であるのなら。喜んで、あなたの妻となりましょう」

 それは、二人が、絶望の果てに掴んだ、何よりも固い誓いの言葉だった。

 黒の森から始まった物語は、ようやく一つの夜明けを迎えた。しかし、レオンを操り、この悲劇を引き起こした「賢者の真眼」の影は、まだ北方の地に深く根を下ろしている。

 二人の戦いは、まだ始まったばかりだった。