銀の福音

 エリアーナに襲いかかったクラウスの腕を、巨大な銀色の顎が寸でのところで噛み砕いた。

 「グルルルルッ!」

 聖獣ルーンが、神々しくも恐ろしい威圧感を放ちながら、エリアーナの前に立ちはだかる。その琥珀色の瞳は、主を傷つけようとする全ての者への、容赦ない怒りに燃えていた。

 ルーンの登場で、暴徒と化した村人たちの動きが一瞬、止まる。

 だが、それも束の間だった。呪いは、聖獣への恐怖さえも麻痺させる。

 「うおおおお!」

 再び、地獄の饗宴が始まろうとしていた。

 「もう……いや……。やめて……」

 その光景を前に、リリアーナはついに膝から崩れ落ちた。

 彼女がまだ、ただエリアーナの姉であった頃。

 庭で、羽の折れた蝶を見つけたエリアーナは、数日かけて薬草を調合し、その羽を繋ぎ合わせてみせた。再び空へと舞い上がった蝶を見て、両親は「エリアーナは、なんて優しい、特別な子なのでしょう」と、手放しで褒め称えた。

 その隣で、リリアーナは、自分が丹精込めて育てた、庭で一番美しい薔薇の花束を、両親に見せようと隠し持っていた。だが、エリアーナの「奇跡」の前では、自分の薔薇が、あまりにも色褪せて見えた。

 その日以来、彼女は悟ってしまったのだ。

 地道な努力では、天才である妹には、決して敵わない。ならば、自分は、妹の才能を利用してでも、妹よりも「特別」で、「華やか」な存在にならなければならないのだ、と。

 彼女の歪んだ承認欲求は、この小さな劣等感から始まっていた。

 「私は……ただ、一番になりたかっただけ……。エリアーナみたいに、みんなから『すごい』って言われたかっただけなのに!こんな……こんな地獄が見たかったわけじゃない!」

 砕かれた仮面の下から現れたのは、聖女ではなく、ただ嫉妬と劣等感に苛まれ続けた、哀れな一人の女の素顔だった。

 その魂の叫びを聞きながら、エリアーナの脳内では、無数の錬金術の知識が高速で回転していた。

 (鎮静剤の材料が足りない。でも、この呪いを根本から断つには、もっと強力な解呪薬が必要。呪いの発生源である、この村の土、水、そして……呪いを媒介した『血液』。それらがあれば……)

 エリアーナの視線が、泣き崩れる姉、リリアーナへと注がれた。

 「姉様」

 エリアーナは、ルーンとギデオンに守られながら、リリアーナに近づいた。

 その声は、氷のように冷たく、静かだった。

 「あなたの血を、いただきにきました」

 「……え?」

 「この呪いは、あなたの偽薬を介して広がった。ならば、あなたの血の中には、この呪いに対する、最も強力な『抗体』が存在するはず。あなたの血を触媒にすれば、村人全員を救う解呪薬が作れる」

 それは、紛れもない事実であり、論理的な結論だった。

 だが、その響きは、あまりにも残酷だった。

 「何を……言っているの……?」

 「あなたは、聖女なのでしょう?」

 エリアーナは、リリアーナの目を見据えた。その瞳には、憐れみも、同情も、憎しみさえもなかった。ただ、錬金術師としての、冷徹な探究心だけがあった。

 「民を救うためなら、自らの血を捧げることくらい、厭わないはずですわよね?」

 かつて、姉が自分にしてきたこと。才能を、成果を、当たり前のように奪っていった、あの搾取。

 今、エリアーナは、それを、姉自身に突きつけていた。

 これは、復讐ではない。ただ、目の前の命を救うための、最も合理的な手段。

 そのエリアーナの変貌に、リリアーナは恐怖した。

 妹は、もはや自分の知っている、気弱なエリアーナではない。自分と同じか、あるいはそれ以上に、冷酷な覚悟を決めた、一人の錬金術師だった。

 「いや……いやあああああ!」

 リリアーナが悲鳴を上げた、その時。

 地平線の彼方から、砂塵が舞い上がった。それは、一つの騎馬隊などではない。北方領土の旗を掲げた、一個師団にも匹敵する、大軍勢だった。

 その先頭を駆けるのは、陽光を弾く白銀の髪。

 氷血公爵、カイエン・フォン・ヴォルフシュタインが、ついに戦場へと到着したのだ。