「さあ、降りろ!」

 御者の乱暴な声と共に、荷馬車の扉が開け放たれる。エリアーナは、抵抗することなく地面に降り立った。

 目の前に広がる光景に、彼女は息を呑んだ。

 黒の森――その名の通り、全ての光が拒絶されたような場所だった。木々は苦悶に身をよじるようにねじくれ、枝先は天を掴もうとする骸骨の指のようだ。地面からは、紫黒色の瘴気が陽炎のように立ち上り、鼻をつく甘く腐ったような匂いがした。

 「ヒヒンッ!」

 馬が怯えたようにいななく。御者は忌々しげに舌打ちすると、エリアーナに一つの麻袋を投げつけた。中には、数日分の硬いパンと水、そして火打ち石が入っているだけだった。

 「せいぜい、魔物の腹の足しにでもなるんだな」

 嘲笑を背に、馬車は逃げるように去っていく。完全な静寂が訪れ、エリアーナは世界に一人取り残された。

 (ここが……私の墓場)

 瘴気に当てられたのか、視界がぐにゃりと歪む。足元から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった、その時だった。

 ぽこん、と。

 お腹の内側から、小さな、しかし確かな感触があった。

 初めて感じる、我が子の胎動だった。

 「……あ……」

 その瞬間、エリアーナの世界に、再び色が戻った。

 恐怖も、絶望も、悲しみも、その小さな生命の鼓動の前では些細なことに思えた。

 (違う。ここは墓場じゃない。この子と私が、新しく生きていく場所)

 彼女は、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや侯爵令嬢の面影はなく、我が子を守る母の強い光が宿っていた。

 「見ていなさい、リリアーナ、レオン……そして、私を捨てた世界。私は死なない。この子と共に、誰にも搾取されない穏やかな場所を、この手で作ってみせる」

 彼女は、麻袋から火打ち石を取り出すと、近くの枝を拾い集め始めた。

 まずは火を確保し、夜を越す。そして、安全な寝床を探す。

 錬金術師としての知識が、頭の中で高速で回転を始める。

 この森の瘴気は、不安定なマナの集合体。ならば、安定させる触媒を見つければ、無害化できるはずだ。このねじくれた木々も、汚染された土も、私の知識があれば、本来の姿を取り戻せるかもしれない。

 かつて夢見た、誰かを救うための錬金術。

 今、そのすべてを、たった一人の我が子と、自分自身のために使うのだ。

 エリアーナの、たった二人の、しかし何よりも強固な「国づくり」が、この絶望の森で静かに始まった。