銀の福音

 「その子の父親は、私だ」

 氷血公爵のその一言は、法と秩序の剣よりも重く、レオンの心臓を貫いた。

 彼の完璧だったはずの計画――エリアーナを罪悪感で縛り、その子を「禁忌」の御旗のもとに奪い去るという策略は、カイエンが自ら「父親」という最大の盾となったことで、木っ端微塵に砕け散った。 レオンの顔から血の気が引き、完璧な微笑みは屈辱と憎悪に歪む。

 「……正気、ですか。公爵閣下。その言葉が、何を意味するか……」

 「理解しているからこそ、言っている」

 カイエンは、エリアーナの肩を抱く腕に力を込めた。それは、彼女を守るという、揺るぎない意志の表れだった。

 「この北方の地において、俺の言葉こそが法だ。不服があるなら、王都に帰り、主君にそう伝えるがいい。このカイエン・フォン・ヴォルフシュタイン、王家であろうと、この子の一指たりとも触れさせはしない、と」

 レオンは、もはや何も言えなかった。カイエンの瞳に宿る、論理を超えた絶対的な覚悟の前では、国王の勅命さえも色褪せて見える。彼は忌々しげに一礼すると、馬に飛び乗り、逃げるように森を去っていった。その背中には、任務の失敗という屈辱と、エリアーナを奪われたことに対する、暗く燃える嫉妬の炎が渦巻いていた。

 彼がエリアーナを捨て、リリアーナを選んだのは、より輝かしい主君に仕え、名誉を得るという歪んだ騎士道のためだった。エリアーナを断罪したあの日から、彼は自らの罪を正当化するため、「国家のため」という大義名分を盾にしてきた。だが、カイエンはその盾を、愛という最も原始的な力で粉砕した。彼の騎士道は地に堕ち、残ったのは、得られなかったものへの執着と、自分を打ち負かした者への憎悪だけだった。この屈辱は、彼をさらに危険な道へと駆り立てることになる。

 嵐が去り、遺跡にはカイエンとエリアーナ、そしてすべてを見守っていたギデオンとルーンだけが残された。

  エリアーナは、カイエンの胸の中で、こらえていた涙を流していた。

 「……どうして、あんなことを」

 「言ったはずだ。お前という最高の錬金術師を失うことは、この北方にとって最大の損失となる。ゆえに、お前とその子を、ヴォルフシュタイン家の管理下に置く。最も合理的な判断だ」

 カイエンは、あくまでも論理的な説明を試みる。だが、その声は微かに震え、エリアーナを抱く腕は、今まで感じたことがないほど優しく、温かかった。

 遺跡に戻ると、カイエンはすぐさまギデオンに指示を飛ばし始めた。

 「ギデオン。北方の全領主に向けて、使者を送れ。議題は一つ、『北方独立の是非』についてだ」

 「公爵様、それは……!」

 「俺は、法を破った。王家は必ず、これを口実に攻めてくるだろう。ならば、こちらも城壁を築くまで。他の領主たちにも、論理的な選択を迫る。腐敗した王都に搾取され続けるか、新たな力(錬金術)を得て、自立した北方国家の一員となるか、をな」 


 カイエンは北方独立を決意する。

 エリアーナを狙うリリアーナとは別に、
王家は、「星の血脈」を宿すカイエンを諦めていないからだ。

 
勅命という法的な手段が一度使われた以上、今後も彼らはあらゆる手で干渉してくることが論理的に予測される。
だからこそ、王家の法が及ばない、完全に独立した主権国家を築くことこそが、エリアーナとお腹の子を恒久的に守るための、唯一かつ最も合理的な解であると結論付けたのだ。


 そして、エリアーナが発見した「星雫苔」などの新たな錬金術資源により、北方は王都に頼らずとも経済的に自立できるという確固たる勝算が立った。
その結果、彼は諸侯に「腐敗した王都への隷属」か「新たな繁栄への参画」かという、究極の選択を突きつけるという行動に出た。
それは、彼の父が遺した言葉の実践だった。

 『愛する者を守る』という目的のために、彼は自らの論理を、国家の形さえも変える武器へと昇華させたのだ。

 その夜、エリアーナはカイエンの傷の手当てをしながら、静かに口を開いた。

 「私に、手伝えることはありますか」

 「お前は、お前の子を守ることだけを考えろ。それが、お前の役目だ」

  「いいえ」

 エリアーナは、カイエンの目をまっすぐに見つめた。

 「私の役目は、それだけではありません。あなたは、あなた一人の命を懸けて、私とこの子を守ってくれた。今度は、私があなたと、あなたの国を守る番です。私の錬金術のすべてを、この北方の地のために捧げましょう。薬を、豊かな土壌を、強固な武具を……。王都が、喉から手が出るほど欲しがるような、誰にも奪うことのできない繁栄を、この地にもたらしてみせます」

 それは、搾取されるだけの道具だった錬金術師が、初めて自らの意志で、誰かのためにその力を使うと誓った瞬間だった。 カイエンは、言葉を失った。 目の前にいるのは、守られるべきか弱い女ではない。

 共に未来を築き、共に戦うべき、唯一無二のパートナーだった。 彼はそっと、エリアーナのお腹に手を触れる。

 「……我々の城は、難攻不落になりそうだな」

 氷の公爵の口元に、数年ぶりとなる、心からの笑みが浮かんでいた。