黒の森が浄化されてから、一月が過ぎた。
遺跡の周辺は、エリアーナの錬金術とギデオンが麓の村から手配した協力もあって、小さな集落と呼べるほどの姿に変わりつつあった。温かい家、豊かな畑、そして何よりも、穏やかな時間。お腹の子は順調に育ち、エリアーナは生まれて初めて、未来を心待ちにするという感情を知った。
カイエンの傷も癒え、二人の間には、言葉にしなくとも互いを理解し合える、深い信頼関係が生まれていた。彼はもはや、エリアーナを「論理」で観察しない。ただ、その存在がすぐそばにあることを、当たり前の幸福として享受していた。
その日の午後、事件は起きた。
見張りの兵士が、一頭の馬が森の入り口に現れたことを告げた。その騎手が纏うのは、王都の近衛騎士団の制服。そして、その先頭に立つ男の顔を認めた瞬間、エリアーナの世界から再び色が消えた。
レオン・アークライト。
私の才能を利用し、姉と結託して私を断罪した、かつての恋人。
「……なぜ、あなたがここに」
エリアーナの声は、氷のように冷たく震えていた。
レオンは馬から降りると、以前と変わらぬ優しげな微笑みを浮かべた。だが、その瞳の奥には、獲物を見つけた蛇のような、昏い光が宿っている。
「迎えに来たよ、エリアーナ。君の罪は、リリアーナ様の温情により赦された。そして、君が身ごもっている子……その子の未来のために、王家が正式に保護をお申し出くださっている」
彼の言葉に、カイエンがエリアーナを守るように一歩前に出る。そのアイスブルーの瞳は、絶対零度の怒りに燃えていた。
「戯言を。ここは私の領地だ。王家の介入など、許すと思うか」
しかし、レオンは臆することなく、一枚の羊皮紙をカイエンに突きつけた。そこには、国王の署名と、王家の紋章が赫々と輝いていた。
「これは、勅命です、公爵閣下。エリアーナの子は、彼女が犯した罪……王家の秘薬庫から禁忌の素材を持ち出そうとした際に宿した可能性がある。つまり、その身には、王家が管理すべき『禁忌の力』が宿っているかもしれないのです。それを調査し、保護することは、国家の安寧のための至上命令です」
あまりにも身勝手で、悪意に満ちた論理。
エリアーナは、全身の血が逆流するような怒りと恐怖に襲われた。
彼は、リリアーナという「輝かしい主君」に仕え、名誉を得ることこそが自らの騎士道だと信じている。エリアーナを裏切ったあの日から、彼はもう後戻りはできなかった。彼は自らの罪を正当化するために、「国家のため」「リリアーナ様のため」という大義名分を必要としていた。
『エリアーナの子は、危険な存在だ。それを管理することは、国を守る騎士としての俺の務めだ』
そう思い込むことで、彼は自らの罪悪感から目を背け、エリアーナから最後の希望を奪うという、最も卑劣な任務を遂行しようとしていたのだ。
「そんな……嘘よ……!」
エリアーナは、咄嗟にお腹を庇う。
この子だけは、誰にも渡さない。その一心で、彼女は死の森を生き抜いてきたのだ。
レオンは、悲痛な表情を作ってエリアーナに近づこうとする。
「エリアーナ、君のためなんだ。こんな辺境で、罪人の子として生きるよりも、王都で正式な保護を受けた方が、この子も幸せになれる。さあ、一緒に帰ろう」
その甘い言葉が、かつて自分を騙した言葉と重なる。
エリアーナは、カイエンの背に隠れながら、目の前の男を睨みつけた。
もう騙されない。この手で掴んだ幸せを、この子の未来を、二度とあなた達の好きにはさせない。
彼女の瞳の奥で、かつての理想の篝火が、復讐の炎となって静かに燃え上がっていた。
遺跡の周辺は、エリアーナの錬金術とギデオンが麓の村から手配した協力もあって、小さな集落と呼べるほどの姿に変わりつつあった。温かい家、豊かな畑、そして何よりも、穏やかな時間。お腹の子は順調に育ち、エリアーナは生まれて初めて、未来を心待ちにするという感情を知った。
カイエンの傷も癒え、二人の間には、言葉にしなくとも互いを理解し合える、深い信頼関係が生まれていた。彼はもはや、エリアーナを「論理」で観察しない。ただ、その存在がすぐそばにあることを、当たり前の幸福として享受していた。
その日の午後、事件は起きた。
見張りの兵士が、一頭の馬が森の入り口に現れたことを告げた。その騎手が纏うのは、王都の近衛騎士団の制服。そして、その先頭に立つ男の顔を認めた瞬間、エリアーナの世界から再び色が消えた。
レオン・アークライト。
私の才能を利用し、姉と結託して私を断罪した、かつての恋人。
「……なぜ、あなたがここに」
エリアーナの声は、氷のように冷たく震えていた。
レオンは馬から降りると、以前と変わらぬ優しげな微笑みを浮かべた。だが、その瞳の奥には、獲物を見つけた蛇のような、昏い光が宿っている。
「迎えに来たよ、エリアーナ。君の罪は、リリアーナ様の温情により赦された。そして、君が身ごもっている子……その子の未来のために、王家が正式に保護をお申し出くださっている」
彼の言葉に、カイエンがエリアーナを守るように一歩前に出る。そのアイスブルーの瞳は、絶対零度の怒りに燃えていた。
「戯言を。ここは私の領地だ。王家の介入など、許すと思うか」
しかし、レオンは臆することなく、一枚の羊皮紙をカイエンに突きつけた。そこには、国王の署名と、王家の紋章が赫々と輝いていた。
「これは、勅命です、公爵閣下。エリアーナの子は、彼女が犯した罪……王家の秘薬庫から禁忌の素材を持ち出そうとした際に宿した可能性がある。つまり、その身には、王家が管理すべき『禁忌の力』が宿っているかもしれないのです。それを調査し、保護することは、国家の安寧のための至上命令です」
あまりにも身勝手で、悪意に満ちた論理。
エリアーナは、全身の血が逆流するような怒りと恐怖に襲われた。
彼は、リリアーナという「輝かしい主君」に仕え、名誉を得ることこそが自らの騎士道だと信じている。エリアーナを裏切ったあの日から、彼はもう後戻りはできなかった。彼は自らの罪を正当化するために、「国家のため」「リリアーナ様のため」という大義名分を必要としていた。
『エリアーナの子は、危険な存在だ。それを管理することは、国を守る騎士としての俺の務めだ』
そう思い込むことで、彼は自らの罪悪感から目を背け、エリアーナから最後の希望を奪うという、最も卑劣な任務を遂行しようとしていたのだ。
「そんな……嘘よ……!」
エリアーナは、咄嗟にお腹を庇う。
この子だけは、誰にも渡さない。その一心で、彼女は死の森を生き抜いてきたのだ。
レオンは、悲痛な表情を作ってエリアーナに近づこうとする。
「エリアーナ、君のためなんだ。こんな辺境で、罪人の子として生きるよりも、王都で正式な保護を受けた方が、この子も幸せになれる。さあ、一緒に帰ろう」
その甘い言葉が、かつて自分を騙した言葉と重なる。
エリアーナは、カイエンの背に隠れながら、目の前の男を睨みつけた。
もう騙されない。この手で掴んだ幸せを、この子の未来を、二度とあなた達の好きにはさせない。
彼女の瞳の奥で、かつての理想の篝火が、復讐の炎となって静かに燃え上がっていた。
