「……撤退する」
長い沈黙の末、グライフェン辺境伯は、苦々しい表情でそう呟くと、騎士団を率いて森から去っていった。彼は、エリアーナが差し出した水を飲むことはなかった。だが、その瞳には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
彼自身の行動原理である「秩序」と「論理」が、目の前の「事実」を無視することを許さなかったのだ。
『この件、一旦本城に持ち帰り、事実関係を精査する』
そう言い残した彼の背中は、来た時のような絶対的な確信を失っていた。
嵐が去り、遺跡には再び静寂が戻った。
緊張の糸が切れたエリアーナは、その場に崩れ落ちそうになる。その体を、カイエンの腕が力強く支えた。
「……見事だった」
カイエンが、掠れた声で言った。そのアイスブルーの瞳には、初めて見る、温かい光が宿っていた。それは、彼女の才能への賞賛であり、共に戦い抜いたパートナーへの、純粋な信頼の色だった。
工房に戻り、エリアーナはカイエンの背中の傷の手当てを始めた。岩盤の直撃を受けた傷は深く、普通の人間なら命を落としていてもおかしくない。
「なぜ……あんな無茶を」
エリアーナが問いかけると、カイエンは答えに窮した。
「……論理的な判断だ。お前という最高の錬金術師を失うことは、この北方にとって最大の損失となる」
早口でそう言う彼の耳が、わずかに赤く染まっていることに、エリアーナは気づかなかった。
彼女は、自ら調合した再生軟膏を、彼の傷に優しく塗り込んでいく。
その指が、彼の背中に刻まれた、古い傷跡に触れた。それは、彼がまだ幼い頃、両親を失ったあの日に負ったものだと、ギデオンから聞いていた。
エリアーナは、その傷を、まるで自分の痛みのように、そっと撫でた。
「……あなたも、ずっと一人で戦ってきたのね」
その言葉に、カイエンの肩が微かに震えた。
彼の孤独を、その心の傷を、正確に理解してくれた者など、これまで誰もいなかった。
彼は、ゆっくりと振り返ると、エリアーナの手を掴んだ。その手は、冷たい氷のようではなく、確かな温もりを持っていた。
「……エリアーナ……お前だけだ。俺のこの傷に、気づいてくれたのは」
カイエンが、初めて彼女の名を呼んだ。
「俺は、お前を……」
彼が何かを言いかけた、その時だった。
ぽこん、と。
エリアーナのお腹の子が、大きく動いた。まるで、二人の間に流れる穏やかな空気に、応えるかのように。
その小さな生命の主張に、二人ははっと我に返り、互いの顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、ふっと笑みがこぼれた。
それは、恋人同士の甘い時間とは違う。
過酷な運命の中、互いの傷を舐めあい、寄り添うことを知った、二つの孤独な魂が、初めて家族になった瞬間だった。
エリアーナは、この穏やかな時間が、永遠に続けばいいと、心から願った。
しかし、その願いを打ち砕くかのように、王都では新たな毒が撒かれようとしていた。
グライフェン辺境伯の報告を受けたリリアーナとレオンは、自分たちの計画が失敗したことを知る。
「あの役立たず、まだあんな力が残っていたなんて……!」
リリアーナは扇子を叩きつけ、憎々しげに呟く。
「こうなれば、もっと直接的な手を打つしかないわね。――レオン、あなたの出番よ」
レオンの瞳に、暗く、歪んだ光が宿った。
「……御意。エリアーナが腹に宿す『子』……あれを使えば、あの氷の公爵も、動揺を隠せますまい」
彼らが次に狙うのは、エリアーナが何よりも大切にしている、たった一つの希望。
穏やかな夜明けを迎えた二人に、より残酷で、非情な運命の嵐が、すぐそこまで迫っていた。
長い沈黙の末、グライフェン辺境伯は、苦々しい表情でそう呟くと、騎士団を率いて森から去っていった。彼は、エリアーナが差し出した水を飲むことはなかった。だが、その瞳には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
彼自身の行動原理である「秩序」と「論理」が、目の前の「事実」を無視することを許さなかったのだ。
『この件、一旦本城に持ち帰り、事実関係を精査する』
そう言い残した彼の背中は、来た時のような絶対的な確信を失っていた。
嵐が去り、遺跡には再び静寂が戻った。
緊張の糸が切れたエリアーナは、その場に崩れ落ちそうになる。その体を、カイエンの腕が力強く支えた。
「……見事だった」
カイエンが、掠れた声で言った。そのアイスブルーの瞳には、初めて見る、温かい光が宿っていた。それは、彼女の才能への賞賛であり、共に戦い抜いたパートナーへの、純粋な信頼の色だった。
工房に戻り、エリアーナはカイエンの背中の傷の手当てを始めた。岩盤の直撃を受けた傷は深く、普通の人間なら命を落としていてもおかしくない。
「なぜ……あんな無茶を」
エリアーナが問いかけると、カイエンは答えに窮した。
「……論理的な判断だ。お前という最高の錬金術師を失うことは、この北方にとって最大の損失となる」
早口でそう言う彼の耳が、わずかに赤く染まっていることに、エリアーナは気づかなかった。
彼女は、自ら調合した再生軟膏を、彼の傷に優しく塗り込んでいく。
その指が、彼の背中に刻まれた、古い傷跡に触れた。それは、彼がまだ幼い頃、両親を失ったあの日に負ったものだと、ギデオンから聞いていた。
エリアーナは、その傷を、まるで自分の痛みのように、そっと撫でた。
「……あなたも、ずっと一人で戦ってきたのね」
その言葉に、カイエンの肩が微かに震えた。
彼の孤独を、その心の傷を、正確に理解してくれた者など、これまで誰もいなかった。
彼は、ゆっくりと振り返ると、エリアーナの手を掴んだ。その手は、冷たい氷のようではなく、確かな温もりを持っていた。
「……エリアーナ……お前だけだ。俺のこの傷に、気づいてくれたのは」
カイエンが、初めて彼女の名を呼んだ。
「俺は、お前を……」
彼が何かを言いかけた、その時だった。
ぽこん、と。
エリアーナのお腹の子が、大きく動いた。まるで、二人の間に流れる穏やかな空気に、応えるかのように。
その小さな生命の主張に、二人ははっと我に返り、互いの顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、ふっと笑みがこぼれた。
それは、恋人同士の甘い時間とは違う。
過酷な運命の中、互いの傷を舐めあい、寄り添うことを知った、二つの孤独な魂が、初めて家族になった瞬間だった。
エリアーナは、この穏やかな時間が、永遠に続けばいいと、心から願った。
しかし、その願いを打ち砕くかのように、王都では新たな毒が撒かれようとしていた。
グライフェン辺境伯の報告を受けたリリアーナとレオンは、自分たちの計画が失敗したことを知る。
「あの役立たず、まだあんな力が残っていたなんて……!」
リリアーナは扇子を叩きつけ、憎々しげに呟く。
「こうなれば、もっと直接的な手を打つしかないわね。――レオン、あなたの出番よ」
レオンの瞳に、暗く、歪んだ光が宿った。
「……御意。エリアーナが腹に宿す『子』……あれを使えば、あの氷の公爵も、動揺を隠せますまい」
彼らが次に狙うのは、エリアーナが何よりも大切にしている、たった一つの希望。
穏やかな夜明けを迎えた二人に、より残酷で、非情な運命の嵐が、すぐそこまで迫っていた。
