儀式の準備は、静かに、しかし迅速に進められた。

 エリアーナは工房に籠り、来るべき決戦のための「共鳴触媒」の生成に全神経を集中させていた。

 カイエンは、銀のナイフで自らの腕を傷つけ、その血を水晶の器へと静かに満たしていく。彼の「星の血脈」から流れる血は、常人のものとは比較にならないほど強いマナを宿し、淡い光を放っていた。

 「……これを」

 カイエンが差し出した器を、エリアーナは震える手で受け取った。

 温かい。

 彼の命の重さが、ずしりと両腕に伝わってくる。

 かつて、彼女の錬金術は、姉の虚栄心を満たすため、恋人の野心を満たすための「道具」でしかなかった。

 だが、今は違う。

 この手の中にあるのは、一人の男の信頼であり、この北方の地の未来そのものだ。

 「失敗は、許されない……」

 彼女は呟くと、鬼気迫る集中力で調合を始めた。カイエンの血液を慎重に分析し、そのマナ構造を完全に模倣した人工血液を生成する。そして、それを呪いの心臓のマナと共鳴させるための、極めて複雑なルーン回路を刻んだ白金(プラチナ)の円盤を作成していく。

 その姿を、カイエンはただ静かに見守っていた。

 孤独な探求者。世界の(ことわり)を解き明かすことだけに喜びを見出す、自分とよく似た魂。

 (もし、違う場所で、違う形で出会っていたら……)

 そんな、彼の論理にはありえない仮定が、初めて頭をよぎった。

 その頃、王都ローゼンベルク侯爵邸。

 リリアーナとレオンは、密かに一人の男と会っていた。フードを目深に被り、その素顔はうかがい知れないが、男が所属する組織の紋章――「賢者の真眼」――が、彼の胸元で不気味に輝いていた。

 「お聞き及びの通り、氷血公爵は妹を庇護下に置き、黒の森に留まっています」

 リリアーナが苛立たしげに言うと、男は静かに頷いた。

 「好都合です、リリアーナ様。我々の目的は、あくまでもヴォルフシュタインに流れる『星の血脈』。公爵が自ら辺境に出向いてくれたおかげで、仕事がやりやすくなりました」

 数年前、リリアーナは家の古文書庫で、ヴォルフシュタイン家の秘密――「星の血脈」の存在と、ローゼンベルク家がかつてその監視役であったことを知る。その類稀なる力を自分の名声のために利用できないかと考えた彼女は、当時、騎士団で燻っていたレオンを誘惑し、共犯者とした。

 彼らが「賢者の真眼」にその情報をリークした見返りは、組織による経済的、政治的支援。エリアーナの追放劇も、すべては彼らが描いた筋書きだったのだ。彼女の存在は、いずれ邪魔になると初めから分かっていた。

 「それで、どう動くのです? あの氷血公爵を、直接排除するのは不可能でしょう」

 レオンが問うと、男は懐から一つの水晶を取り出した。それは、内部に黒い影が渦巻く、禍々しい輝きを放つ魔道具だった。

 「『囁きの影水晶』。これを使います。公爵本人ではありません。彼の足元……彼を支える、北方の諸侯たちの心を蝕むのです」

 男の計画は、こうだ。

 カイエンが「国を追われた罪人」であるエリアーナを個人的な感情で庇い、領地の統治を疎かにしている、という噂を流す。同時に、この水晶の力で諸侯たちの不満や猜疑心を増幅させ、カイエンに対する不信感を決定的なものにする。

 氷の公爵が最も得意とする「論理」では対応できない、人の心の弱さ、嫉妬、疑心といった「感情」で、彼の王国を内側から崩壊させる。

 「エリアーナと公爵の絆が深まるほど、その絆は、彼らを滅ぼすための絶好の『枷』となるでしょう」

 男の言葉に、リリアーナは恍惚とした笑みを浮かべた。

 黒の森の洞窟。

 エリアーナは、ついに白金の円盤を完成させた。

 あとは、これをあの「脈打つ闇」の中心に設置し、カイエンの血を注ぎ、共鳴を始めるだけだ。

 彼女は、完成した円盤を胸に抱き、大きくなったお腹にそっと手を当てる。

 (大丈夫。必ず成功させる。あなたと、……あの人の未来のために)

 洞窟の入り口では、ギデオンとルーンが、あらゆる脅威を阻む鋼の門番として、静かに闇を見据えていた。

 決戦の時は、目前に迫っていた。