契約から数日後。エリアーナが新しい工房の設置に没頭していると、カイエンと共に一人の男が遺跡を訪れた。
年の頃は三十代後半。使い込まれた鎧に刻まれた無数の傷跡が、その歴戦を物語っている。しかし、厳つい見た目とは裏腹に、その男の瞳は穏やかで、誠実な光を宿していた。
「紹介しよう。私の腹心、騎士団長のギデオンだ。今後の調査における実務と、貴様の護衛を担当する」
「ギデオンと申します、エリアーナ様。以後、お見知りおきを」
ギデオンは、罪人であるはずのエリアーナに対し、貴婦人に対するように丁寧な礼を取った。その態度に、エリアーナは戸惑いを隠せない。
ギデオンの故郷は、北の辺境にある貧しい村だった。彼がまだ幼い頃、村では原因不明の魔力病が流行り、多くの子供が命を落とした。彼の最愛の妹も、その一人だった。
『兄様、痛いよ……助けて……』
衰弱していく妹の手を握りしめることしかできなかった、あの無力感。知識も、力も、金もなかったが故に、救えるはずの命を救えなかった絶望。
その経験が、彼の行動原理を形作った。
『力とは、弱き者を守るためにある。二度と、あの日のような無力は繰り返さない』
彼がカイエンに絶対の忠誠を誓うのは、カイエンの冷徹なまでの論理と力が、最も効率的に、最も多くの民を悲劇から守ると信じているからだ。
そんな彼の目には、身重の体で過酷な環境に身を置くエリアーナは、かつて守れなかった妹の姿と重なって見えていた。彼女は「公爵様の契約者」である以前に、「守るべき弱き者」だったのだ。
ギデオンは、カイエンのようにエリアーナを観察しない。彼は、エリアーナの「生活」を見た。
「エリアーナ様、失礼ながら、そちらの寝床は固すぎます。母体には良くない。すぐに温かい干し草と、上質な毛皮を手配させましょう」
「食事はきちんと摂っておいでですか? 妊婦に必要な栄養素を考えた献立を、麓の村から運ばせます」
彼の気遣いは、契約の一部ではない。ただ純粋な善意と、彼自身の行動原理に基づいたものだった。下心も、見返りを求める気配もないその優しさに、エリアーナはどう反応していいか分からず、ただ頷くことしかできなかった。
数日後、三人とルーンは、瘴気の発生源を特定するため、森のさらに奥深くへと足を踏み入れた。
カイエンが古地図と地脈の流れから論理的に割り出したルートを進み、エリアーナが携帯用の分析装置でマナの異常値を計測する。ギデオンは、常にエリアーナの数歩前を歩き、あらゆる脅威から彼女を守る盾となっていた。
やがて、一行は瘴気が渦を巻く、不気味な洞窟の前にたどり着く。
「間違いない。この奥だ」
カイエンの言葉に頷き、彼らは覚悟を決めて中へと進んだ。
洞窟の最深部は、広大な空洞になっていた。そして、その中央に、一行は言葉を失った。
そこにあったのは、自然物ではなかった。
直径5メートルほどの、黒水晶にも似た巨大な塊。それは、まるで巨大な生物の心臓のように、不規則なリズムで、どくん、どくん、と脈打っていた。
脈打つたびに、周囲の空間が歪み、濃密な瘴気が黒い呼気のように吐き出される。
壁画にあった「黒い太陽」の正体。
この森の汚染は、天災などではない。何者かが、この地に埋め込んだ、おぞましい「呪いの臓器」だったのだ。
「……これは……」
カイエンの顔から、初めて感情なき仮面が剥がれ落ち、純粋な驚愕と、氷のような怒りが浮かび上がった。
自らの領地で、自らの民を脅かす、論理を超えた悪意の存在。
それは、彼が最も憎むべき「不合理」の塊だった。
エリアーナもまた、その脈打つ闇から目が離せなかった。
これは、自分の知識だけで解決できる問題ではない。
たった一人で築こうとした小さな楽園は、世界の巨大な悪意と、既につながってしまっていたのだ。
年の頃は三十代後半。使い込まれた鎧に刻まれた無数の傷跡が、その歴戦を物語っている。しかし、厳つい見た目とは裏腹に、その男の瞳は穏やかで、誠実な光を宿していた。
「紹介しよう。私の腹心、騎士団長のギデオンだ。今後の調査における実務と、貴様の護衛を担当する」
「ギデオンと申します、エリアーナ様。以後、お見知りおきを」
ギデオンは、罪人であるはずのエリアーナに対し、貴婦人に対するように丁寧な礼を取った。その態度に、エリアーナは戸惑いを隠せない。
ギデオンの故郷は、北の辺境にある貧しい村だった。彼がまだ幼い頃、村では原因不明の魔力病が流行り、多くの子供が命を落とした。彼の最愛の妹も、その一人だった。
『兄様、痛いよ……助けて……』
衰弱していく妹の手を握りしめることしかできなかった、あの無力感。知識も、力も、金もなかったが故に、救えるはずの命を救えなかった絶望。
その経験が、彼の行動原理を形作った。
『力とは、弱き者を守るためにある。二度と、あの日のような無力は繰り返さない』
彼がカイエンに絶対の忠誠を誓うのは、カイエンの冷徹なまでの論理と力が、最も効率的に、最も多くの民を悲劇から守ると信じているからだ。
そんな彼の目には、身重の体で過酷な環境に身を置くエリアーナは、かつて守れなかった妹の姿と重なって見えていた。彼女は「公爵様の契約者」である以前に、「守るべき弱き者」だったのだ。
ギデオンは、カイエンのようにエリアーナを観察しない。彼は、エリアーナの「生活」を見た。
「エリアーナ様、失礼ながら、そちらの寝床は固すぎます。母体には良くない。すぐに温かい干し草と、上質な毛皮を手配させましょう」
「食事はきちんと摂っておいでですか? 妊婦に必要な栄養素を考えた献立を、麓の村から運ばせます」
彼の気遣いは、契約の一部ではない。ただ純粋な善意と、彼自身の行動原理に基づいたものだった。下心も、見返りを求める気配もないその優しさに、エリアーナはどう反応していいか分からず、ただ頷くことしかできなかった。
数日後、三人とルーンは、瘴気の発生源を特定するため、森のさらに奥深くへと足を踏み入れた。
カイエンが古地図と地脈の流れから論理的に割り出したルートを進み、エリアーナが携帯用の分析装置でマナの異常値を計測する。ギデオンは、常にエリアーナの数歩前を歩き、あらゆる脅威から彼女を守る盾となっていた。
やがて、一行は瘴気が渦を巻く、不気味な洞窟の前にたどり着く。
「間違いない。この奥だ」
カイエンの言葉に頷き、彼らは覚悟を決めて中へと進んだ。
洞窟の最深部は、広大な空洞になっていた。そして、その中央に、一行は言葉を失った。
そこにあったのは、自然物ではなかった。
直径5メートルほどの、黒水晶にも似た巨大な塊。それは、まるで巨大な生物の心臓のように、不規則なリズムで、どくん、どくん、と脈打っていた。
脈打つたびに、周囲の空間が歪み、濃密な瘴気が黒い呼気のように吐き出される。
壁画にあった「黒い太陽」の正体。
この森の汚染は、天災などではない。何者かが、この地に埋め込んだ、おぞましい「呪いの臓器」だったのだ。
「……これは……」
カイエンの顔から、初めて感情なき仮面が剥がれ落ち、純粋な驚愕と、氷のような怒りが浮かび上がった。
自らの領地で、自らの民を脅かす、論理を超えた悪意の存在。
それは、彼が最も憎むべき「不合理」の塊だった。
エリアーナもまた、その脈打つ闇から目が離せなかった。
これは、自分の知識だけで解決できる問題ではない。
たった一人で築こうとした小さな楽園は、世界の巨大な悪意と、既につながってしまっていたのだ。
