銀の福音

 夜の静寂の中、エリアーナは眠れずにいた。隣ではルーンが穏やかな寝息を立て、お腹の子は静かにその生命を主張している。だが、彼女の心は嵐のようだった。

 畑に現れた黒い腐敗。それは、このささやかな楽園の終わりを告げる癌細胞だ。このままでは、我が子に未来はない。

 (守る……。この子の未来を守るためなら、私は……)

 彼女の脳裏に、かつて自分を裏切った者たちの顔が浮かぶ。姉のリリアーナ、元恋人のレオン。彼らはいつだって、甘い言葉で彼女の才能を搾取した。

 氷血公爵カイエンも同じかもしれない。

 だが、彼は違った。彼は「取引」と言った。感情を介在させず、対等な価値の交換だと。

 ならば、こちらも、感情を挟まず、論理と契約で自らを守り抜くまで。

 翌朝、エリアーナはカイエンの前に、一枚の羊皮紙を差し出した。それは彼女が一晩かけて書き上げた、魔力を帯びた契約書だった。

 「この条件をすべて飲んでいただけるのなら、あなたの取引に乗りましょう」

 カイエンは無言で羊皮紙を受け取り、その内容に目を通す。

 【エリアーナの契約条件】
 第一条: 本契約は、エリアーナ・フォン・ローゼンベルクとカイエン・フォン・ヴォルフシュタインの二者間でのみ有効とする。王家、ローゼンベルク家を含む、いかなる第三者も、本契約の成果に関与し、利益を享受することを禁ずる。
 第二条: エリアーナは「瘴気浄化薬」を完成させカイエンに提供する義務を負う。しかし、その製造方法、理論、および研究過程で得られた副次的な発見に関する所有権は、すべてエリアーナに帰属する。
 第三条: エリアーナの子の親権は、エリアーナただ一人に帰属する。カイエンは、その子の身分と、この北方領地における永続的な安全と平穏を、契約の成否に関わらず保証する義務を負う。
 第四条: カイエンは、エリアーナの明確な許可なく、彼女が居住区画と定める遺跡の特定エリアへの立ち入りを禁ずる。

 カイエンは、そのあまりにも理路整然とし、一切の甘えを排した条文を最後まで読むと、静かに顔を上げた。

 彼の論理は、これらの条件を「脅威に対する自己防衛」として正確に分析した。感情的な反発ではなく、過去のデータに基づいた極めて合理的なリスク管理。それは、彼自身の思考回路と酷似していた。

 「合理的だ。すべての条項を受け入れよう」

 彼の即決に、エリアーナは僅かに目を見開く。値切られることも、見下されることもなく、ただ純粋なビジネスパートナーとして、彼女の条件が認められたのだ。

 契約が魔力の光と共に成立した、その日の午後。

 カイエンの部下たちが、遺跡へと荷物を運び込んできた。食料や暖かい毛布、ベビーベッドの材料といった生活物資に混じって、エリアーナの目を釘付けにしたものがあった。

 それは、ミスリル銀でコーティングされた移動式の錬金釜、属性ごとに分けられたマナ水晶、精霊銀製のフラスコやビーカー、そして、彼女が古文書の中でしか見たことのなかった古代ルーンが刻まれた自動分析装置。

 王都の王立研究所すら凌駕する、最新鋭の錬金術工房一式だった。

 「最高の『結果』を求めるなら、最高の環境を用意するのが最も論理的だ」

 カイエンは、当然のようにそう言った。

 エリアーナは、震える手で、ひんやりとしたミスリル銀のフラスコに触れる。

 利用されるための道具ではない。搾取されるための才能ではない。

 ただ、純粋な「価値」として認められ、それに見合う「対価」が、目の前に差し出されている。

 誰にも理解されなかった孤独な研究の日々が、報われたような錯覚。

 エリアーナの心の奥底で、固く凍りついていた何かが、ほんの少しだけ、音を立てて溶ける気配がした。