瘴気の奔流は一時的なものだったが、森には確かな変化が起きていた。

 エリアーナがその異変に気づいたのは、朝の収穫の時だった。黄金色に輝くはずの星麦の穂先が、数本だけ、黒く変色し、触れるとボロボロと崩れ落ちたのだ。

 「そんな……!」

 エリアーナは、錬金術師の目でその腐敗を分析する。

 (ただの病気じゃない。マナの構造式そのものが、根源から汚染され、破壊されている……)

 その症状は、あの遺跡の壁画に描かれていた光景――黒い太陽が大地を汚染していく様子と、あまりにも似すぎていた。

 あれは、単なる過去の記録などではない。今もなお、この森の深部で進行している、生きた脅威なのだ。

 このまま汚染が広がれば、この畑は全滅する。そうなれば、食料がなくなり、生まれてくる我が子を育てていくことができない。

 初めて、エリアーナの完璧な計画に「予測不能な綻び」が生じた。彼女の瞳に、隠しきれない焦りの色が浮かぶ。それは、我が子を守りたいという、母としての本能的な恐怖だった。

 カイエンは、その変化を見逃さなかった。

 彼は、エリアーナの畑に現れた黒い腐敗と、彼女の表情に浮かんだ焦燥という二つの「事実」を、自らの論理回路にインプットする。

 そして、一つの結論を導き出した。

 『対象は、自力では解決不可能な問題に直面した。交渉の好機である』

 その日の夕方、カイエンは初めてエリアーナの工房の前に立った。

 警戒心を露わにするルーンを手で制し、エリアーナは扉を開ける。

 「……何の御用でしょうか」

 あくまでも冷たいエリアーナの言葉に、カイエンは淡々と事実を告げた。

 「その畑の腐敗は、森の最深部にある『瘴気の源泉』が活性化した影響だ。放置すれば、一月も経たずにこの一帯すべてが汚染されるだろう」

 「……」

 「俺には、それを一時的に抑制するだけの力も、資材もある。だが、根本的な解決には、汚染されたマナの構造を解析し、中和する技術が必要だ。つまり、貴様の錬金術が」

 カイエンのアイスブルーの瞳が、真っ直ぐにエリアーナを射抜く。

 「取引をしよう、エリアーナ・フォン・ローゼンベルク」

 その言葉は、かつてレオンが言った言葉と重なった。

 『君の薬があれば、僕はもっと上に行ける。僕と取引しないか?』

 利用されるだけの日々の記憶が、エリアーナの心に警鐘を鳴らす。

 しかし、カイエンは続けた。その言葉は、レオンとは決定的に違っていた。

 「俺は、貴様の過去にも、感情にも興味はない。興味があるのは、貴様が持つ技術という『事実』だけだ。俺は貴様に、この地での安全な生活と、出産、育児に必要なすべての物資を保証する。その対価として、貴様は俺のために、この森の瘴気を無害化する薬を開発しろ」

 それは、愛も、信頼も、同情も介在しない。

 事実と結果、そして利益だけを突き詰めた、あまりにも論理的で、純粋なビジネスの提案だった。

 搾取される道具ではなく、対等な価値を持つ「契約者」として。

 カイエンは、彼の行動原理である「論理」に則って、エリアーナという規格外の存在を、初めて正式に認めたのだ。

 エリアーナは、言葉を失った。

 目の前の男は、これまで彼女が出会った誰とも違う。

 心を閉ざし、一人で我が子を守り抜くと誓った彼女の鉄壁の聖域に、氷の公爵が差し出した「論理」という名の取引。

 それを受け入れることは、過去の自分を裏切ることになるかもしれない。

 だが、断ることは、愛する我が子の未来を閉ざすことを意味する。

 究極の選択を前に、エリアーナの心は激しく揺れていた。