カイエンが遺跡の近くに居座ってから、奇妙な日々が始まった。

 彼は、エリアーナが朝目覚め、泉で水を汲み、畑の世話をし、薬草を調合し、食事をとる……そのすべてを、少し離れた場所からただ黙って見ているだけだった。そのアイスブルーの瞳は、まるでエリアーナという生命の生態を研究する学者のように無機質で、感情の温度が一切感じられない。

 エリアーナにとって、その視線は耐えがたい苦痛だった。

 それは、かつて研究室にいた頃の記憶を嫌でも蘇らせる。

 『すごいわ、エリアーナ!また新しい発見?』

 『さすがだね、エリアーナ。君は天才だ』

 姉のリリアーナも、元恋人のレオンも、いつもそう言って彼女を褒めそやした。しかし、彼らが見ていたのはエリアーナ自身ではない。彼女が生み出す「成果」という名の便利な道具だけだった。褒め言葉は、次の成果を催促するための餌に過ぎなかった。

 (もう二度と、誰かのための道具にはならない)

 その決意が、エリアーナの行動原理の根幹を成していた。

 彼女がカイエンに対して選んだ抵抗は、「完全なる無視」だった。

 カイエンが存在しないかのように、彼女は日々の営みを続ける。ルーンも主の意思を察しているのか、カイエンの方を見向きもせず、エリアーナのそばにぴったりと寄り添っている。

 それは、静かだが、あまりにも頑なでプライドに満ちた拒絶だった。

 カイエンは、そのエリアーナの態度を、ただ事実として記録する。

 『対象(エリアーナ)は、こちらの存在を意図的に無視。外部からの干渉に対し、極めて強い防御反応を示す。その行動原理は、過去の経験に基づくトラウマか?』

 彼の論理は、感情を排して、彼女の行動を分析し続ける。だが、彼の計算高い予測とは裏腹に、エリアーナは一切の綻びを見せなかった。

 そんな緊張状態が数日続いたある日の午後。

 突如として、森の奥から濃密な瘴気が津波のように押し寄せてきた。これまでルーンの聖なる力で浄化されていた遺跡の周辺まで、紫黒色の霧が侵食してくる。

 「クソッ……!」

 カイエンは咄嗟に、腰に下げた魔道具――瘴気を中和する結界石を起動させる。しかし、瘴気の勢いは異常で、結界石にひびが入っていく。

 一方、エリアーナは冷静だった。

 彼女はすぐさま工房に駆け込むと、調合済みの液体を数本の試験管に注ぎ、遺跡の中庭に規則的に突き刺していく。

 試験管に満たされた液体が、淡い光を放つ。すると、光の柱がいくつも立ち上り、それらが共鳴するように繋がり、遺跡全体をドーム状の光の結界で覆った。押し寄せていた瘴気は、その光の壁に阻まれ、霧散していく。

 それは、カイエンが持つ高価な魔道具よりも、遥かに強力で安定した結界だった。

 カイエンは、己の結界石が砕け散る中、光のドームに守られたエリアーナを呆然と見つめるしかなかった。

 彼女は、カイエンを一瞥だにした。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、「私の聖域には、あなたがいなくても問題ない」と告げるような、絶対的な拒絶だけが込められていた。

 カイエンの凍てついた心に、論理では説明できない「焦り」にも似た感情が、初めて芽生えた瞬間だった。