「咲夜くーん」
耳に甘い声が届いた。
ふわっといい匂いがして、加奈さんが横をすり抜けていく。
その先には、お兄ちゃん。
彼女が声をかけると、兄は顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
うぅ……痛い。それでも目が離せない。
――その瞬間、兄と目が合った。
心臓が跳ね、慌てて視線をそらす。
けれど、二人は真っ直ぐこちらへ向かってくる。
そのまま加奈さんと兄が、私の前で足を止めた。
「よお、優。おまえも来てたのか」
その声には、微かに緊張が混じっていた。
そうだ。
兄は、私が“優”になっていることを知らないんだ。
今、初めて気づいたみたい。
私は加奈さんに勘づかれないよう、そっと自然な笑顔を作る。
「うん、なんとなく気になって。体調もよくなったし、見にきたんだ。
あ、唯は……途中で気分が悪くなって、帰ったみたい」
自分のことを、あくまでさりげなく伝えた。
たぶん、これで察しがつくはず。
けれど兄は驚いた様子を見せなかった。
ただ、ほんの一瞬、目を細めた。
「そうか……。わかった。ま、楽しんでいけよ」
それだけ言って、背を向ける。
一瞬、流斗さんと視線を交わしていたように見えたけど……気のせいかな?
加奈さんは可愛く微笑み、私たちにぺこりと頭を下げた。
そのまま兄のあとを追い、迷いなく腕を絡めて歩き出す。
仲睦まじい背中が、胸に突き刺さる。
見ているのが辛くなって、私はそっと顔を伏せた。
「優くん、じゃあ行ってきます。応援よろしくね」
ふいに流斗さんが、やわらかな声で呼びかけてきた。
軽くウインクまで添えて――
きっと、励まそうとしてくれているんだ。
やっぱり、優しいな……。
「はい。頑張ってください」
私が微笑むと、流斗さんもほっとしたように口元を緩めた。
「じゃあ」
背を向け、歩き出すその背中を見送りながら、私はそっと手を振る。
あたたかな優しさが胸の中に広がっていくのを、静かに噛みしめていた。
