引退式の朝。

楽しみでもあり、悲しくもあった。

「今日で最後」——そう思ったら、少しだけ来てほしくなかった。

いつもなら、体操服で9時集合。

でも今日は違う。

制服で、8時半集合。 お世話になった先生たちに渡す色紙を作るため、近くの公園に集まることになっていた。

10分前に着くと、部長と副部長しかいなかった。

「おはよー」と声をかけると、「おはよう。色紙に張るからカードちょうだい」と言われ、持ってきたカードを渡して貼ってもらう。

しばらくすると、みんなが続々とやってきた。

そして、驚いた。

ほとんどの子がサングラスをかけていた。

「え、そんな感じなの?」 私も持ってきたほうがよかったかな……と一瞬思ったけれど、 でも私は詩妃と芽衣歌とおそろいのヘアアレンジで来ていた。

それだけで、なんだか十分な気がした。

「今日は最後だから、写真撮りたい!」 みんながスマホを取り出して、わいわいしている。

実は、私も……。

こっそりスマホを取り出して、カメラを起動しようとしたその瞬間—— 画面に表示されたのは、まさかのスマホ制限アプリのロック画面。

「はあーー?」 心の中で叫んだ。

うーわ、ばれた。

勝手に持ってきたのが位置情報でバレて、ロックされたっぽい。

解除してほしいけど、こんなところで電話なんてできない。

あきらめるしかなかった。

みんなが笑って、写真を撮っているのを横目に、私はちょっとだけ悔しそうにスマホをしまった。

でも、まあいいか。

この景色は、ちゃんと目に焼きつけておこう。

全部、今日で“最後”だから。



9時2分前。

私たちは、学校の音楽室の前に立っていた。

ドアには、手作りの紙が貼られていた。

「準備中なのでしばらくお待ちください」 その隣には、今日の引退式のプログラム。

「ああ、とうとうか」 芽衣歌と並んで立ちながら、そんな言葉が心の中に浮かんだ。

しゃべっていないと、泣いてしまいそうだった。

しばらくすると、ドアが開いた。

私たちがサングラスをかけて登場した姿を見て、先生たちや、後輩たちは少し驚いたようだった。

芽衣歌も、私も、苦笑いしながら中へ入る。

いつもの合奏の席。

星音ちゃんの隣に座ると、彼女が笑顔で言った。

「ヘアアレ、めっちゃかわいい」 照れながらも、「ありがとう!」と返して、笑った。

その一言が、少しだけ緊張をほどいてくれた。

引退式の始まりは、去年と同じく、コンクールの結果報告からだった。

今日は、できれば楽しく過ごしたい。

少しでも忘れていたい。

でも——銀賞の理由は、ちゃんと聞いておきたかった。

私は、そっとノートとペンを取り出した。

先生が、審査員の講評をゆっくりと読み上げる。

私は、それを一言一言、ノートに書き留めていく。

「基礎練習が足りていない」

「ユニゾンが合っていない」

グサグサと刺さるものだらけだった。

そんな言葉が並ぶ中で、先生はふと、優しく言った。

「でも、去年の結果に比べたら、どんどん改善されているよ。 パートごとの指名は、減ったかな。」

その言葉に、ふわりと笑ってくれた先生の顔が、心に残った。

銀賞の傷は、まだ残っている。

でも、その笑顔で、少しだけ——ほんの少しだけ、浅くなった気がした。



講評が終わると、三年生だけが音楽室を出て、別室に集められた。

次の幹部をどうするか——そんな話し合いだった。

私は幹部ではなかったから、ほとんど意見に合意するだけだった。

でも、話しながらふと気づいた。 「私たちの代が、終わるんだな」 その言葉が、静かに胸に沈んだ。

話し合いが終わって、音楽室に戻ると、空気が少しだけ柔らかくなっていた。

次は、ゲームの時間。

以心伝心ゲーム。

お題を出して、答えがそろうかどうかを競う。

私たちの吹奏楽部らしいお題がたくさん出た。

「この学校の吹奏楽といえば?」

「吹奏楽の中で一番笑う人は?」

そんな、ちょっと笑えるけど、みんなのことをよく知っていないと答えられないものばかり。

私はホルンパートの仲間とチームを組んで、頑張って答えをそろえた。

結果は——一回しかそろわなかった。

でも、それでもよかった。 たくさん話せて、たくさん笑えて、うれしかった。

そして、いよいよ——あの時間が来た。

三年生が、ひとりずつ言葉を伝える時間。

私は、昨日ノートに書いた言葉を思い出そうとした。

でも、ノートを取り出す時間がなくて、アドリブになってしまった。

私の順番は最後のほう。

みんなの言葉を聞きながら、一生懸命考えていた。

そして、名前を呼ばれた。 立ち上がって、前に出る。

「これを言おう」と覚悟していたのに、口を開いた瞬間——すべてが抜けた。

焦る私。

でも、先生たちは優しい目で見守ってくれていた。

後輩たちも、静かに聞いてくれていた。

「吹奏楽に入ってよかったことは……」 なんとか一つだけ言えた。

そして、最後のお礼も。

「本当に3年間、ありがとうございました」

言葉に詰まりまくって、無理やり終わらせたみたいになってしまった。

でも、言い終えた瞬間——涙腺が崩壊した。

涙があふれて、止まらなかった。

ハンカチを取り出して、一生懸命ぬぐったけれど、涙はあふれるばかり。

顔は真っ赤になって、隠すようにハンカチを握りしめた。

そのあとは、後輩と話す時間。

真っ赤な顔のまま、プレゼントを渡して、たくさんしゃべった。

「ありがとう」「頑張ってね」「応援してるよ」 言葉が止まらなかった。

すると、星音ちゃんがそっと近づいてきて、色紙を差し出してくれた。

「部員みんなで書いたんです」 そう言って渡してくれた色紙。

「ありがとう」と受け取り、そっと開く。

そこには、うれしい言葉がたくさん並んでいた。

また涙があふれそうになった。

でも、今度の涙は——悲しみじゃなくて、感謝の涙だった。


後輩との時間をたっぷり楽しんだあと、音楽室の空気が少しだけ静かになった。

「じゃあ、楽器のお手入れしようか」

先生の声に促され、私は自分の楽器を取りに行った。

3年間、ずっと一緒だった楽器。

悔しい日も、嬉しい日も、泣いた日も、笑った日も——全部、この楽器と過ごしてきた。

初めホルンに決まった時は、なんで私が、、、って思っていたけれど、

吹いてみると、少しずつ変わっていった。

音が出るたびに、心が震えた。

難しいけど、だからこそ、できたときの喜びが大きかった。

気づけば、ホルンは私の相棒になっていた。

ホルンがあったから、私は変われた。

夢中になれた。

可能性に気づけた。

これは、きっと運命の出会い。

一生懸命、洗う。

細かいところまで、丁寧に。

「一番きれいにして終わりたい」 そんな気持ちで、ピカピカになるように磨いた。

隣では、芽衣歌がユーフォニアムを洗っていた。

楽器の形が似ているから、一緒に作業することになった。

「たのしかったな」 芽衣歌がぽつりと言う。 「うん、ほんとに」 私も、同じ気持ちだった。

「高校でも吹奏楽、入るかな」

「定演あったら、先生たち誘いたいね」

「後輩のコンクールも、見に行きたいな」

そんな未来の話をしながら、笑い合った。

未来の不安を抱きながらも。

楽器を拭き終えたあと、ケースにしまう。

その瞬間、少しだけ胸がきゅっとなった。

もう、この楽器を吹くことはないかもしれない。

でも、今日までありがとう。

そう心の中でつぶやいた。

楽器に。 仲間に。 先生に。 そして、吹奏楽部の3年間に。

さようならをして、家に帰った。

制服のまま、鞄を置いて、静かな部屋に座る。

誰もいない。 今日は、一人。

机の上に置いた色紙を、そっと開いた。

星音ちゃんが渡してくれた、部員みんなからのメッセージ。

カラフルなカードに書かれた言葉たちが、並んでいた。

「ありがとう」 「先輩の音、好きでした」 「また会いたいです」 「頑張ってください」

その一言一言が、胸に刺さる。

そして——涙腺崩壊。

ぽろぽろと、涙がこぼれた。

誰もいない部屋だから、

ハンカチでぬぐっても、涙は止まらなかった。

でも、それは悲しみだけじゃない。 感謝と、誇りと、愛しさと、少しの未練が混ざった涙だった。

3年間、吹奏楽部で過ごせてよかった。

ホルンと出会えてよかった。 この仲間と音を重ねられて、本当に幸せだった。