「心配だからだろ」
真っ暗になった夜空の下、学校の自転車置き場でハル兄ちゃんはそういうと、私にキスをした。
真っ暗な夜空だったのに、おもちゃ箱をひっくり返したような星がチカチカ光りだした。
ああ、そうか。私はハル兄ちゃんが好きだったんだ。
初めてのキスの感想は、真っ赤な耳しか記憶にない。キスに慣れているはずのハル兄ちゃんが、耳を真っ赤にしていた記憶しかないんだ。
「浮気は死ななきゃ治んないね」
ため息とともにふわりと香水のいい香りが私の鼻をかすめた。
諦めてしまっている声。図書当番で誰も来ない図書室で呑気に座っていた時だった。
二人組の三年生の女子が、本をもって入ってきた。私に図書カードを渡す。ピンク色の綺麗な爪が光る指で、思わず大人っぽくて見とれてしまった。
私は丸くてかわいくない爪を見てちょっと恥ずかしくなる。
「浮気だから、私にまた戻ってくるのは分かるけどさぁ、いい加減こっちもヤキモチ妬く気も失せるわ」
「――ちゃんと、聞いてる?」
その三年の声と、目の前の声が被って慌て顔を上げた。携帯を弄っていながら私の顔を覗き込んでくるユズキ。
昨日のハル兄ちゃんとは全然違う、幼い顔にため息が出てしまった。
「ミホは、俺のお兄ちゃんが好きなの?」
「何で?」
受け取った図書カードに今日の日付のハンコを押すと、三年のボックスにカードを戻す。引きつる笑顔で聞き返していたんだと思う。
「昨日、自転車置き場で2人が――キス、してたから」
「まぁ、キスぐらいならまだ許せるけどね」
本当に上手い具合に、三年生たちの会話と被ってしまってちょっと笑えた。多分、あの三年生たちには私たち子どもの話は聞こえてないと思う。
私にだけ、よりリアルに聞こえてくるだけ。
「そうかもね」
「俺も、好きだったんだけど」
「え、ハルお兄ちゃんが?」
「……ミホが」
ちょっと怒った口調で言い放つと席を立った。私は追いかけなかったので、残り30分ある図書当番を、ユズはまんまとサボったのだ。
「お前、弟とまた喧嘩したなー」
自転車置き場で単車を磨いていたハル兄ちゃんを見つけ、駆けていく。何でも形から入るハル兄ちゃんは、汚れたタオルを首にかけてジャージのファスナーを上げながらご機嫌だった。
私の図書委員が終わるのを待っていてくれたのか。昨日同様、毎日待ってくれるのかな。
キスを見られてた、とは言えずに口ごもってしまう。私はまだ高校に入学してきたばかりの一年生で、ハル兄ちゃんは就職も決まった三年生。小さい頃はずっと2人で遊んでた。さっき告白してきた弟を2人でイジメたりしながら。
「単車はもう飽きたんじゃなかったの? バイクか車買うからバイトするって言ってた癖に」
単車は真っ青な青で塗られていた。所々に黄色の線も入っていく。
「車はまだ免許取れないから先送りだ。高級車はバイトじゃ買えるレベルじゃねーし」オレには単車で十分だと鼻歌混じりで単車を磨く。
けど、多分すぐに飽きちゃうんだ。野球もサッカーもすぐ止めたし。オリンピックの後はその時々のスポーツに影響されるけど、1ヶ月も続かない。スケボーも結局乗りこなせないまま。倉庫には、最初だけ手入れしていた真新しいオモチャが沢山入っている。
ハル兄ちゃんは、本当に顔だけの男だ。顔は、色素の薄い茶色の髪が軽薄さを隠せていないけど、格好いいし身長だった高いし人目を惹く。そして甘え上手で人懐っこい笑顔をする。
高校に入学して知ったよ。私には手が届かないような大人の雰囲気のくせに、笑顔が可愛いなんてさ。幼馴染だったのに知らなかったんだよ。
「あのね、ハル兄ちゃん」
「なにー?」
「浮気は死ななきゃ治らない病気らしいよ」
「ぶっ」
ハル兄ちゃんは勢いよく鼻歌を吹き飛ばした。
「何?」
「イヤ、耳の痛い話だなぁ、とね」
ピカピカに磨かれた単車を、満足そうに撫でながら笑う。
「すぐ飽きて結局は倉庫の中で眠っちゃうよね」
「イヤイヤ、単車はまじ大切だし! 眠らないし!」
……ちょっとガッカリ。同級生は皆ガキに見える中、ハル兄ちゃんはとても大人っぽく見えたのになぁ……。
「そんなに色んなものに浮気するけど、結局最後には本命の恋人の元へ戻るらしいよ。お兄ちゃんの本命は何?」
フラフラ、すぐに何にでも夢中になるけど、他に面白いと思うものが出来ればすぐに捨ててしまうんだから。
「オレは常に本気モードだって! ミホみたいに子どもには難しいかもしれないけど、浮気した自覚はそん時には無いんだよ。そん時は本気なんだから」
「じゃあ、いつ本気じゃないって分かるの?」
ハル兄ちゃんは苦笑して、ちょっと困って考えている。
「そこまで考えて行動してないから、困ってるんだよね。多分、私とのキスもそう。したいなー、と思ったからしただけだよね」
「イヤイヤ、10年以上も幼なじみしててずっと好きだったんだけど。お前が高校生になるまで待ってたんだからな」
自信満々とそう言うハル兄ちゃんを、私はとても冷静に見る事ができた。お兄ちゃん、でもあり、幼なじみでもあり、同級生に弟がいるだけあって、年上は憧れの対象だった。人懐こいし、女の子に紳士だからモテてたし。
「嘘。ハル兄ちゃんが彼女沢山いたの知ってるよ」
やっと、高校生になってから私を見てくれた事も。
「私を好きだというのも今だけ本気の、『浮気』だと思うよ」
「イヤイヤ、だーかーら」
必死で両手をあたふたさせるお兄ちゃんに、私はため息がついた。本当に浮気は病気だね。こんな、自覚なく人を傷つけてしまうこの男は特に。
「あんなに両手広げて待っている彼女が居るから、私に好きだって言えたんだよ。また謝れば彼女さんは許してくれるからね」
「お前……」
「今日、図書室に私を見に来たよ。大人っぽい綺麗な人だった」
自分が本命だと自信を持っている人だった。でも一応幼馴染でもある私を見に来たんだと思う。
「私が本命なら、あの彼女さんとも別れられるの?」
あんな綺麗で素敵で、オマケにこんなろくでなしをよく理解している、彼女を。お兄ちゃんは本当に真っ青になってる。ちゃんと私を好きだという気持ちも持っているから。
「彼女も好き?」
「……すっげぇ」
「けど、お前が誰かとキスするとか耐えられないし。真っ暗な夜、一人で帰るとかあぶねえし。俺が守りたい」
勝手な事、めちゃくちゃ言ってる。自分は彼女が凄い好きなのに、私の事も好きなんて。
「お前が憧れているほど、俺はしっかりしてねぇよな。なんでお前が高校生なるまで待てなかったんだろ」
しゃがみ込んで、下を向く。乾いた笑顔が痛々しい。
「ユズキに告られたけど、断った方がいいかもね」
私は小さくなった情けない男の頭を撫でた。あんなに欲しかった人がこんなに身近にいて、私が好きだと言っているのに。
「……なんでさ? 俺より誠実で良い奴じゃん」
「だって、私今キスしたい」
こんな情けない人なのに、キスしたいと思ってる。他に好きな人がいても、自分も大切に思ってくれてるなら良いかなっとか思ってしまってる。
「私も最低な人みたい」
そう言って、顔を無理矢理上げさせてキスをした。全ては手に入らないこの男を、情けなくてけれど傍に居たいと思ってしまう。だから、笑って好きだよって教えておいた。空は、真っ青な夜に染まっていた。
絶対にすべてを手に入らない男であるハル兄ちゃんを、私は好きだけど、キスもしたいけど、どうしても手に入る気がしなかった。
あの人は私の手に余る人だ。
家に帰ってそのまま庭から隣の庭に入ると、二階の窓からは、カーテン越しに灯りが見える。私はその窓に向かって、石を投げる。
気づかないユズに腹が立って、靴ややがて庭に置いてあったスコップまで投げ出した。
「……何?」
やっと窓を開けたのは、昼休みに気まずそうに別れた顔のまま。
ハル兄ちゃんとは違う。色素の薄い顔ではなく、きりっとした硬派でまじめそうな顔。身長だって私と同じぐらいで、一緒にいても携帯でゲームしてばっかのような魅力なんてない、ただの幼馴染。
「またアンタのお兄ちゃんとキスしてきたよ」
「……報告いらねぇし。さっさと兄貴と一緒に居ろよ」
一瞬怯んで、傷ついた。傷つけた私は、多分最低。
「んーん。君の兄貴は彼女の元に向かったよ」
「意味、分からねー」
頭をボサボサと掻く、私に苛立って睨みつけてきた。本当に私を思ってるのは、誰なのかは明確だった。
見上げていた首が痛くなったので、庭の隅の倉庫に目を移す。
「私ね、あのオモチャ箱みたいな倉庫の中に飾られたい」
スケボー、野球道具にサッカーボール。飽きた今でも、時々取り出しては綺麗に磨いている。だから何時までも綺麗で居られる。そして、気が向いたらまた使ってくれる。
「ハル兄ちゃんのオモチャ箱の中身になりたかったなぁ……」
真っ青なペンキに塗られたような夜空。キラキラ光る星は、漫画みたいな描いたような形。そんな幻想的な夜に、私はツマラナい夢を描いていた。
「――そんな都合の良い女になるなよ」
ブスッと怒ってユズは私を睨む。誠実で、好きな人だけに一途なんだ。私は多分、違う。ハル兄ちゃんの方を思ったまま、この私を思ってくれている弟と付き合える。
「うん。余りにも非現実過ぎて笑っちゃうよね」
あんなツマラナい奴をどうして放っておけないんだろうか。どうしてこんなに好きなんだろう。知らず知らずに泣けてきた。好きなのに、両思いなのに、全ては手に入らないのに、キスできる距離なのに、なのに苦しくて切なかった。私は全て受け止めたいとも思わない。格好良い、大人な部分だけが好きだから。
彼女さんみたいに、浮気しても帰ってくるからと許せるほどできた女じゃない。
この涙は、――失恋。失ったものはデカすぎた。
「アンタもこんな風に泣くから、私みたいなのに惚れるなよ」
オロオロと私の涙を見て狼狽えていたユズにそう告げた。傷つけるだけだから、止めた。愛に飢えた私は、すがりつく場所を無くした。そうしなければ、いけなかった。
「じゃぁ、ね。好きになってくれてありがとう。変わらずに友達で居てね」
私は立ち尽くすユズに手を振った。
「……ごめん」
何故かユズの方は謝った。
その時、道路から光が近づいてきてエンジンの音がした。
ハル兄ちゃんが単車で帰ってきたんだ。
「クソ兄貴!」
ユズが窓から叫ぶと、バタバタと一階へ降りていく。私はとっさに家の隅に隠れるしかできなかった。
単車を倉庫に入れる。シャッターを、閉める……。走ればまだ間に合うかもしれない。オモチャ箱の中に入れるかもしれない。だけど私は動けなくて、泣いた。
「……ミホ?」
ヘルメットを脱いだハル兄ちゃんは私に気づいて、目を見開く。
私は抱き着きたい衝動を抑えて、ただ笑った。
「もう一回キスしたい?」
「――させたくない」
階段を下りてきたユズの、息の荒い大声に立ち止まった。
「ミホ、兄貴に仕返ししてやれよ」
生き生きしたユズの声に、今度は本当に噴出した。
そういえば、小さい頃はよく喧嘩したよねと思った。
ハル兄ちゃんが悲鳴を上げる中、二人で単車を蹴飛ばして、倉庫の中の仕舞われた大切な道具たちを庭に掘り投げて、ケラケラ笑った。
「ミホ、ユズキ!」
ハル兄ちゃんの情けない声は、おもちゃ箱みたいな夜空に響いた。
要らない。もう要らないよ。全て手に入らないなら、――諦める。
夜空は真っ暗になって、オモチャは全部星屑のように庭にばらまかれて、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような大惨事になっていた。
好きだとか、本命だとか、キスだとか、すべてばからしくなるぐらい二人で暴れまわった。
私が大切なものは、きっと星空の下では小さくてすぐに消えてなくなるようなものだった。
「お前らぁ」
情けないハル兄ちゃんの声に、ばからしくなって初恋は終わった。
おやすみ。また、明日。全てリセットして、また明日。
明日から、自転車置き場には私もハル兄ちゃんの姿さえもきっとないのであった。
終
真っ暗になった夜空の下、学校の自転車置き場でハル兄ちゃんはそういうと、私にキスをした。
真っ暗な夜空だったのに、おもちゃ箱をひっくり返したような星がチカチカ光りだした。
ああ、そうか。私はハル兄ちゃんが好きだったんだ。
初めてのキスの感想は、真っ赤な耳しか記憶にない。キスに慣れているはずのハル兄ちゃんが、耳を真っ赤にしていた記憶しかないんだ。
「浮気は死ななきゃ治んないね」
ため息とともにふわりと香水のいい香りが私の鼻をかすめた。
諦めてしまっている声。図書当番で誰も来ない図書室で呑気に座っていた時だった。
二人組の三年生の女子が、本をもって入ってきた。私に図書カードを渡す。ピンク色の綺麗な爪が光る指で、思わず大人っぽくて見とれてしまった。
私は丸くてかわいくない爪を見てちょっと恥ずかしくなる。
「浮気だから、私にまた戻ってくるのは分かるけどさぁ、いい加減こっちもヤキモチ妬く気も失せるわ」
「――ちゃんと、聞いてる?」
その三年の声と、目の前の声が被って慌て顔を上げた。携帯を弄っていながら私の顔を覗き込んでくるユズキ。
昨日のハル兄ちゃんとは全然違う、幼い顔にため息が出てしまった。
「ミホは、俺のお兄ちゃんが好きなの?」
「何で?」
受け取った図書カードに今日の日付のハンコを押すと、三年のボックスにカードを戻す。引きつる笑顔で聞き返していたんだと思う。
「昨日、自転車置き場で2人が――キス、してたから」
「まぁ、キスぐらいならまだ許せるけどね」
本当に上手い具合に、三年生たちの会話と被ってしまってちょっと笑えた。多分、あの三年生たちには私たち子どもの話は聞こえてないと思う。
私にだけ、よりリアルに聞こえてくるだけ。
「そうかもね」
「俺も、好きだったんだけど」
「え、ハルお兄ちゃんが?」
「……ミホが」
ちょっと怒った口調で言い放つと席を立った。私は追いかけなかったので、残り30分ある図書当番を、ユズはまんまとサボったのだ。
「お前、弟とまた喧嘩したなー」
自転車置き場で単車を磨いていたハル兄ちゃんを見つけ、駆けていく。何でも形から入るハル兄ちゃんは、汚れたタオルを首にかけてジャージのファスナーを上げながらご機嫌だった。
私の図書委員が終わるのを待っていてくれたのか。昨日同様、毎日待ってくれるのかな。
キスを見られてた、とは言えずに口ごもってしまう。私はまだ高校に入学してきたばかりの一年生で、ハル兄ちゃんは就職も決まった三年生。小さい頃はずっと2人で遊んでた。さっき告白してきた弟を2人でイジメたりしながら。
「単車はもう飽きたんじゃなかったの? バイクか車買うからバイトするって言ってた癖に」
単車は真っ青な青で塗られていた。所々に黄色の線も入っていく。
「車はまだ免許取れないから先送りだ。高級車はバイトじゃ買えるレベルじゃねーし」オレには単車で十分だと鼻歌混じりで単車を磨く。
けど、多分すぐに飽きちゃうんだ。野球もサッカーもすぐ止めたし。オリンピックの後はその時々のスポーツに影響されるけど、1ヶ月も続かない。スケボーも結局乗りこなせないまま。倉庫には、最初だけ手入れしていた真新しいオモチャが沢山入っている。
ハル兄ちゃんは、本当に顔だけの男だ。顔は、色素の薄い茶色の髪が軽薄さを隠せていないけど、格好いいし身長だった高いし人目を惹く。そして甘え上手で人懐っこい笑顔をする。
高校に入学して知ったよ。私には手が届かないような大人の雰囲気のくせに、笑顔が可愛いなんてさ。幼馴染だったのに知らなかったんだよ。
「あのね、ハル兄ちゃん」
「なにー?」
「浮気は死ななきゃ治らない病気らしいよ」
「ぶっ」
ハル兄ちゃんは勢いよく鼻歌を吹き飛ばした。
「何?」
「イヤ、耳の痛い話だなぁ、とね」
ピカピカに磨かれた単車を、満足そうに撫でながら笑う。
「すぐ飽きて結局は倉庫の中で眠っちゃうよね」
「イヤイヤ、単車はまじ大切だし! 眠らないし!」
……ちょっとガッカリ。同級生は皆ガキに見える中、ハル兄ちゃんはとても大人っぽく見えたのになぁ……。
「そんなに色んなものに浮気するけど、結局最後には本命の恋人の元へ戻るらしいよ。お兄ちゃんの本命は何?」
フラフラ、すぐに何にでも夢中になるけど、他に面白いと思うものが出来ればすぐに捨ててしまうんだから。
「オレは常に本気モードだって! ミホみたいに子どもには難しいかもしれないけど、浮気した自覚はそん時には無いんだよ。そん時は本気なんだから」
「じゃあ、いつ本気じゃないって分かるの?」
ハル兄ちゃんは苦笑して、ちょっと困って考えている。
「そこまで考えて行動してないから、困ってるんだよね。多分、私とのキスもそう。したいなー、と思ったからしただけだよね」
「イヤイヤ、10年以上も幼なじみしててずっと好きだったんだけど。お前が高校生になるまで待ってたんだからな」
自信満々とそう言うハル兄ちゃんを、私はとても冷静に見る事ができた。お兄ちゃん、でもあり、幼なじみでもあり、同級生に弟がいるだけあって、年上は憧れの対象だった。人懐こいし、女の子に紳士だからモテてたし。
「嘘。ハル兄ちゃんが彼女沢山いたの知ってるよ」
やっと、高校生になってから私を見てくれた事も。
「私を好きだというのも今だけ本気の、『浮気』だと思うよ」
「イヤイヤ、だーかーら」
必死で両手をあたふたさせるお兄ちゃんに、私はため息がついた。本当に浮気は病気だね。こんな、自覚なく人を傷つけてしまうこの男は特に。
「あんなに両手広げて待っている彼女が居るから、私に好きだって言えたんだよ。また謝れば彼女さんは許してくれるからね」
「お前……」
「今日、図書室に私を見に来たよ。大人っぽい綺麗な人だった」
自分が本命だと自信を持っている人だった。でも一応幼馴染でもある私を見に来たんだと思う。
「私が本命なら、あの彼女さんとも別れられるの?」
あんな綺麗で素敵で、オマケにこんなろくでなしをよく理解している、彼女を。お兄ちゃんは本当に真っ青になってる。ちゃんと私を好きだという気持ちも持っているから。
「彼女も好き?」
「……すっげぇ」
「けど、お前が誰かとキスするとか耐えられないし。真っ暗な夜、一人で帰るとかあぶねえし。俺が守りたい」
勝手な事、めちゃくちゃ言ってる。自分は彼女が凄い好きなのに、私の事も好きなんて。
「お前が憧れているほど、俺はしっかりしてねぇよな。なんでお前が高校生なるまで待てなかったんだろ」
しゃがみ込んで、下を向く。乾いた笑顔が痛々しい。
「ユズキに告られたけど、断った方がいいかもね」
私は小さくなった情けない男の頭を撫でた。あんなに欲しかった人がこんなに身近にいて、私が好きだと言っているのに。
「……なんでさ? 俺より誠実で良い奴じゃん」
「だって、私今キスしたい」
こんな情けない人なのに、キスしたいと思ってる。他に好きな人がいても、自分も大切に思ってくれてるなら良いかなっとか思ってしまってる。
「私も最低な人みたい」
そう言って、顔を無理矢理上げさせてキスをした。全ては手に入らないこの男を、情けなくてけれど傍に居たいと思ってしまう。だから、笑って好きだよって教えておいた。空は、真っ青な夜に染まっていた。
絶対にすべてを手に入らない男であるハル兄ちゃんを、私は好きだけど、キスもしたいけど、どうしても手に入る気がしなかった。
あの人は私の手に余る人だ。
家に帰ってそのまま庭から隣の庭に入ると、二階の窓からは、カーテン越しに灯りが見える。私はその窓に向かって、石を投げる。
気づかないユズに腹が立って、靴ややがて庭に置いてあったスコップまで投げ出した。
「……何?」
やっと窓を開けたのは、昼休みに気まずそうに別れた顔のまま。
ハル兄ちゃんとは違う。色素の薄い顔ではなく、きりっとした硬派でまじめそうな顔。身長だって私と同じぐらいで、一緒にいても携帯でゲームしてばっかのような魅力なんてない、ただの幼馴染。
「またアンタのお兄ちゃんとキスしてきたよ」
「……報告いらねぇし。さっさと兄貴と一緒に居ろよ」
一瞬怯んで、傷ついた。傷つけた私は、多分最低。
「んーん。君の兄貴は彼女の元に向かったよ」
「意味、分からねー」
頭をボサボサと掻く、私に苛立って睨みつけてきた。本当に私を思ってるのは、誰なのかは明確だった。
見上げていた首が痛くなったので、庭の隅の倉庫に目を移す。
「私ね、あのオモチャ箱みたいな倉庫の中に飾られたい」
スケボー、野球道具にサッカーボール。飽きた今でも、時々取り出しては綺麗に磨いている。だから何時までも綺麗で居られる。そして、気が向いたらまた使ってくれる。
「ハル兄ちゃんのオモチャ箱の中身になりたかったなぁ……」
真っ青なペンキに塗られたような夜空。キラキラ光る星は、漫画みたいな描いたような形。そんな幻想的な夜に、私はツマラナい夢を描いていた。
「――そんな都合の良い女になるなよ」
ブスッと怒ってユズは私を睨む。誠実で、好きな人だけに一途なんだ。私は多分、違う。ハル兄ちゃんの方を思ったまま、この私を思ってくれている弟と付き合える。
「うん。余りにも非現実過ぎて笑っちゃうよね」
あんなツマラナい奴をどうして放っておけないんだろうか。どうしてこんなに好きなんだろう。知らず知らずに泣けてきた。好きなのに、両思いなのに、全ては手に入らないのに、キスできる距離なのに、なのに苦しくて切なかった。私は全て受け止めたいとも思わない。格好良い、大人な部分だけが好きだから。
彼女さんみたいに、浮気しても帰ってくるからと許せるほどできた女じゃない。
この涙は、――失恋。失ったものはデカすぎた。
「アンタもこんな風に泣くから、私みたいなのに惚れるなよ」
オロオロと私の涙を見て狼狽えていたユズにそう告げた。傷つけるだけだから、止めた。愛に飢えた私は、すがりつく場所を無くした。そうしなければ、いけなかった。
「じゃぁ、ね。好きになってくれてありがとう。変わらずに友達で居てね」
私は立ち尽くすユズに手を振った。
「……ごめん」
何故かユズの方は謝った。
その時、道路から光が近づいてきてエンジンの音がした。
ハル兄ちゃんが単車で帰ってきたんだ。
「クソ兄貴!」
ユズが窓から叫ぶと、バタバタと一階へ降りていく。私はとっさに家の隅に隠れるしかできなかった。
単車を倉庫に入れる。シャッターを、閉める……。走ればまだ間に合うかもしれない。オモチャ箱の中に入れるかもしれない。だけど私は動けなくて、泣いた。
「……ミホ?」
ヘルメットを脱いだハル兄ちゃんは私に気づいて、目を見開く。
私は抱き着きたい衝動を抑えて、ただ笑った。
「もう一回キスしたい?」
「――させたくない」
階段を下りてきたユズの、息の荒い大声に立ち止まった。
「ミホ、兄貴に仕返ししてやれよ」
生き生きしたユズの声に、今度は本当に噴出した。
そういえば、小さい頃はよく喧嘩したよねと思った。
ハル兄ちゃんが悲鳴を上げる中、二人で単車を蹴飛ばして、倉庫の中の仕舞われた大切な道具たちを庭に掘り投げて、ケラケラ笑った。
「ミホ、ユズキ!」
ハル兄ちゃんの情けない声は、おもちゃ箱みたいな夜空に響いた。
要らない。もう要らないよ。全て手に入らないなら、――諦める。
夜空は真っ暗になって、オモチャは全部星屑のように庭にばらまかれて、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような大惨事になっていた。
好きだとか、本命だとか、キスだとか、すべてばからしくなるぐらい二人で暴れまわった。
私が大切なものは、きっと星空の下では小さくてすぐに消えてなくなるようなものだった。
「お前らぁ」
情けないハル兄ちゃんの声に、ばからしくなって初恋は終わった。
おやすみ。また、明日。全てリセットして、また明日。
明日から、自転車置き場には私もハル兄ちゃんの姿さえもきっとないのであった。
終



