「やっとこっち見たな」
彼のその声に、滴る汗を拭いながら見上げた。
その日は、暑い上にじめじめとしていてすっきりしない夏の始まりの日。
『今日から夏ですよ! 暑くなりますよ!』ってきっちり季節が変わってほしい。
雨の後のアスファルトのような臭いと、暑くて水分を奪われる日差しに不機嫌にならないわけはない。
進路指導室でいつまで経っても来ない先生を待ってる時だった。
――い、――おい。
上靴の名前が薄れてきたなあってぼんやり考えていたら、私の頭に名前が降ってきたんだ。
「おい、美空」
「え、……蒼人センパイ」
「やっとこっち見たな」
ニッと笑うと、八重歯が見えた。
先輩は暑そうにシャツを摘まんで仰ぎながら、慣れた手つきで冷房のスイッチを押した。
「なんで高校生がここにいるんですか?」
蒼人先輩は、私の一つ上で、私の志望校に通っている水泳部の先輩だった。
去年、中学生の部の全国大会でクロールと自由形の新記録を録った、オリンピック候補生だ。順位は上から四番目だと、当時自慢していた気がする。
チョコレイト色の肌に、短く整えられ塩素負けして茶色かかった髪、やんちゃそうで意地悪だった顔は、高校になってスッと引き締まり思わず見とれてしまった。
「高校のプールの温度管理の機械の故障だって。今日は筋トレっていうから、後輩たちに紛れて泳がせてもらおうかなって」
「うちは一昨日期末テストが終わったばかりですよ。プールの掃除も明日からです」
「まじかよ。じゃあここでも泳げねえのか」
残念そうにため息を吐きながらも、私の隣に座ってきた。
私の隣に、未来のオリンピック選手兼男の人魚が座っている。
それだけで心臓が止まってしまいそうだった。
先輩は誰よりも速く、誰よりも綺麗なフォームで泳ぐ人。
後輩の私は、憧れて手の届かない先輩を見ているだけだった。
「で、なんで進路指導室にいんの?」
「個人面談だって。期末テストの結果を見ながら、ひとりひとり呼び出して、夏休みの間に三者面談」
「あー。あったな。てか先生、吉野? さっき電話してたけど長くなりそうだってお茶を貰ってたよ」
「ええー。人を暑い進路指導室に待たせておいて、自分は涼しい職員室でお茶? 信じられないっ」
「だから冷房ぐらいつけてもいいって。怒られねえよ」
先輩は確かに慣れた手つきで冷房のスイッチをおしていた。
内申書に怯える私たちにはできない大胆な行動だった。
「で、お前、ちゃんと俺の通う東高校に来るんだろうな」
「いた。横腹ツンツンやめてくださいよ」
「もしかして、他の女子みたいに可愛い制服の南高だの、駅に近くてバイトの許可もとれる不良ばっかの西高校に行きたいとかいうなよ」
「……言いませんよ」
私は、男の人魚の速さの虜なんですから。
当然、唯一水泳部がある東高校に行くに決まっている。
「分かってる。お前は誰よりも真剣に練習してたし。掃除だって準備だって一番率先してたし。筋トレも、今の俺みたいにサボらず真面目にしてたよな」
「ひえ。褒めても受験生からは何も出てこないですよ、飴とかお菓子も持ってきてません」
「いるかよ」
ククッと楽しそうに笑った後、私の顔を見ながら、机に倒れ込んだ。
見上げられて、その鋭い瞳に吸い込まれそうでドキドキする。
数か月会っていないだけなのに、先輩は前より日焼けしているし、大きく感じる。身長も伸びている気がする。しかも学ランだったのに、今はブレザーだ。
その大きな変化にも私の心臓は落ち着かない。
大きく跳ねる鼓動は、古い冷房のモーター音でかき消されていく。未だに涼しくならない生温かく少し埃臭い匂いに、先輩と私の額にうっすらと汗が滲む。
「なあ」
「なんですか」
「東高校に行くのは、水泳部があるから?」
「……まあ、そんなところです」
可愛げない答えに、先輩は目を細めた。
伸ばされた手が、汗で濡れているように見える。
近づいてくる手が、私の心臓を掴むのかと身構える。
けれど、その手は優しく私の髪を掴むと指先で擦り合わせて遊ばれた。
何をしてくるのか分からず目を逸らせなかったら、先輩の唇が動いた。
「俺がいるから?」
「えええ?」
「うける。そこまで動揺すんなよ。傷つく」
パッと手を離されて、先輩が立ちあがる。
もう行ってしまうのかな。たまたま開け放たれた指導室の中で、私を見つけて声をかけただけ。泳げないと分かったから帰ってしまうのかな。
受験生の身分で、夏休みはほぼ塾や学校で潰れてしまう中、今度はいつ会えるか分からない。そう思うと先輩が消えていく背中を見たくなかった。
「やっと俺が受験終わったら、次はお前だろ。全然会えなくてつまんねえ」
「……先輩?」
「俺さ、美空が合格するまでは良い子で待ってやってるから絶対受かれよ」
その意味が分からず数秒固まった。先輩は私のあこがれの人で、将来オリンピックに出るような人で、しかも男の人魚って感じでたくましいのに綺麗な人。
だから信じられなくて、目を見開く。額に滲んだ汗が、顎に伝い落ちていく。
ようやく冷房が効いてきたのに、顔が熱い。
「お前と一緒にまた部活したいし、いっしょに帰りたいし、それ以上のことも勿論、我慢してた分、いっぱいするから」
「あの、蒼人先輩?」
「だってお前も、俺が好きだろ?」
クスクス笑う声。
夏が始まった暑い日。
滴る汗で波打つ心臓、赤く染まる頬、震える唇。
恐る恐る振り返ると、先輩はとろけんばかりに甘く笑っていた。
先輩の目が細く三日月みたいになるくしゃくしゃの笑顔は、きっといつか私の心臓を止めてしまう。
プールの故障なんて、口実だよって優しく囁く先輩は、意地悪だ。
「――やっとこっち見たな」
その言葉の意味は、次の瞬間、近づいてくる先輩の顔と触れる唇から気づく。
振り向く夏の日の、恋の予感。
Fin
彼のその声に、滴る汗を拭いながら見上げた。
その日は、暑い上にじめじめとしていてすっきりしない夏の始まりの日。
『今日から夏ですよ! 暑くなりますよ!』ってきっちり季節が変わってほしい。
雨の後のアスファルトのような臭いと、暑くて水分を奪われる日差しに不機嫌にならないわけはない。
進路指導室でいつまで経っても来ない先生を待ってる時だった。
――い、――おい。
上靴の名前が薄れてきたなあってぼんやり考えていたら、私の頭に名前が降ってきたんだ。
「おい、美空」
「え、……蒼人センパイ」
「やっとこっち見たな」
ニッと笑うと、八重歯が見えた。
先輩は暑そうにシャツを摘まんで仰ぎながら、慣れた手つきで冷房のスイッチを押した。
「なんで高校生がここにいるんですか?」
蒼人先輩は、私の一つ上で、私の志望校に通っている水泳部の先輩だった。
去年、中学生の部の全国大会でクロールと自由形の新記録を録った、オリンピック候補生だ。順位は上から四番目だと、当時自慢していた気がする。
チョコレイト色の肌に、短く整えられ塩素負けして茶色かかった髪、やんちゃそうで意地悪だった顔は、高校になってスッと引き締まり思わず見とれてしまった。
「高校のプールの温度管理の機械の故障だって。今日は筋トレっていうから、後輩たちに紛れて泳がせてもらおうかなって」
「うちは一昨日期末テストが終わったばかりですよ。プールの掃除も明日からです」
「まじかよ。じゃあここでも泳げねえのか」
残念そうにため息を吐きながらも、私の隣に座ってきた。
私の隣に、未来のオリンピック選手兼男の人魚が座っている。
それだけで心臓が止まってしまいそうだった。
先輩は誰よりも速く、誰よりも綺麗なフォームで泳ぐ人。
後輩の私は、憧れて手の届かない先輩を見ているだけだった。
「で、なんで進路指導室にいんの?」
「個人面談だって。期末テストの結果を見ながら、ひとりひとり呼び出して、夏休みの間に三者面談」
「あー。あったな。てか先生、吉野? さっき電話してたけど長くなりそうだってお茶を貰ってたよ」
「ええー。人を暑い進路指導室に待たせておいて、自分は涼しい職員室でお茶? 信じられないっ」
「だから冷房ぐらいつけてもいいって。怒られねえよ」
先輩は確かに慣れた手つきで冷房のスイッチをおしていた。
内申書に怯える私たちにはできない大胆な行動だった。
「で、お前、ちゃんと俺の通う東高校に来るんだろうな」
「いた。横腹ツンツンやめてくださいよ」
「もしかして、他の女子みたいに可愛い制服の南高だの、駅に近くてバイトの許可もとれる不良ばっかの西高校に行きたいとかいうなよ」
「……言いませんよ」
私は、男の人魚の速さの虜なんですから。
当然、唯一水泳部がある東高校に行くに決まっている。
「分かってる。お前は誰よりも真剣に練習してたし。掃除だって準備だって一番率先してたし。筋トレも、今の俺みたいにサボらず真面目にしてたよな」
「ひえ。褒めても受験生からは何も出てこないですよ、飴とかお菓子も持ってきてません」
「いるかよ」
ククッと楽しそうに笑った後、私の顔を見ながら、机に倒れ込んだ。
見上げられて、その鋭い瞳に吸い込まれそうでドキドキする。
数か月会っていないだけなのに、先輩は前より日焼けしているし、大きく感じる。身長も伸びている気がする。しかも学ランだったのに、今はブレザーだ。
その大きな変化にも私の心臓は落ち着かない。
大きく跳ねる鼓動は、古い冷房のモーター音でかき消されていく。未だに涼しくならない生温かく少し埃臭い匂いに、先輩と私の額にうっすらと汗が滲む。
「なあ」
「なんですか」
「東高校に行くのは、水泳部があるから?」
「……まあ、そんなところです」
可愛げない答えに、先輩は目を細めた。
伸ばされた手が、汗で濡れているように見える。
近づいてくる手が、私の心臓を掴むのかと身構える。
けれど、その手は優しく私の髪を掴むと指先で擦り合わせて遊ばれた。
何をしてくるのか分からず目を逸らせなかったら、先輩の唇が動いた。
「俺がいるから?」
「えええ?」
「うける。そこまで動揺すんなよ。傷つく」
パッと手を離されて、先輩が立ちあがる。
もう行ってしまうのかな。たまたま開け放たれた指導室の中で、私を見つけて声をかけただけ。泳げないと分かったから帰ってしまうのかな。
受験生の身分で、夏休みはほぼ塾や学校で潰れてしまう中、今度はいつ会えるか分からない。そう思うと先輩が消えていく背中を見たくなかった。
「やっと俺が受験終わったら、次はお前だろ。全然会えなくてつまんねえ」
「……先輩?」
「俺さ、美空が合格するまでは良い子で待ってやってるから絶対受かれよ」
その意味が分からず数秒固まった。先輩は私のあこがれの人で、将来オリンピックに出るような人で、しかも男の人魚って感じでたくましいのに綺麗な人。
だから信じられなくて、目を見開く。額に滲んだ汗が、顎に伝い落ちていく。
ようやく冷房が効いてきたのに、顔が熱い。
「お前と一緒にまた部活したいし、いっしょに帰りたいし、それ以上のことも勿論、我慢してた分、いっぱいするから」
「あの、蒼人先輩?」
「だってお前も、俺が好きだろ?」
クスクス笑う声。
夏が始まった暑い日。
滴る汗で波打つ心臓、赤く染まる頬、震える唇。
恐る恐る振り返ると、先輩はとろけんばかりに甘く笑っていた。
先輩の目が細く三日月みたいになるくしゃくしゃの笑顔は、きっといつか私の心臓を止めてしまう。
プールの故障なんて、口実だよって優しく囁く先輩は、意地悪だ。
「――やっとこっち見たな」
その言葉の意味は、次の瞬間、近づいてくる先輩の顔と触れる唇から気づく。
振り向く夏の日の、恋の予感。
Fin



